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生きがいの夜明け

  • 生まれ変わりに関する科学的研究の発展が人生観に与える影響について-
    福島大学経済学部助教授 飯田史彦
    はじめに
     私は、人事管理論を専攻する関係から、人間の「働きがい」や「生きがい」と呼ばれるもの、あるいは「幸せ感」について考えることが少なくない。とりわけ、最近では、各地で「生きがいのマネジメント」というテーマで話をして欲しいと依頼されることが増えており、この命題の重要性がますます強まりつつあることを痛感している。
     元来、私は「組織文化」すなわち「構成員に共有されている価値観」の研究者であるため、経営学の枠組みの中で、価値観の転換による働きがいの向上という観点から考察を進めてきた。つまり、「人間の価値観」をキーワードに、企業組織の革新を、経営者や上司による、一種の「望ましいマインド・コントロール」としてとらえてみたのである。
     ところが、その研究過程で私は、経営者や管理職の方々が、ある共通した問題意識を抱いていることを発見した。それは、「労働意欲を高める様々な方法を実施してみたが、どれも表面的な技法にすぎないため、せいぜい、従業員に仕事が好きになったと錯覚させただけでがなかったのか」という危惧である。そのため、彼らは、何らかの方法で従業員の価値観を深層から揺さぶり、既存の思考の枠組みを根底から覆すことによって、単なる働きがいの向上に留まらない本質的な変化を生じさせたいと模索しているのであった。
     そこで私は、ある個人的体験を契機に知った特殊な情報について、試みに、各所でそれとなく話しをしてみることにした。その結果、その情報を伝えた人々が、目を丸くし、時には涙を浮かべながら、真剣に聞き入ってくれることを発見した。
    ある経営者は、「それこそが私の求めていたものです。社員に何をしてもらえるかではなく、社員に何をしてやれるかという、すっかり忘れていた問題意識がよみがえってきました」とうなづいた。また、ある管理職は「ぜひ、部下ばかりではなく家族や知人にも教えてあげたい」と目を輝かせ、ある学生は「これで何も怖くなくなりました。これからは下宿に帰って一人きりでいても、寂しくありません」とよろこぶのであった。
     その特殊な情報とは、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する近年の科学的研究成果の内容であった。
    私は、人々にその情報を伝えることによって生じる効果の、あまりの大きさに驚いた。その情報を、ただ聞き手の先入観を無くしながら正しく伝えるだけで、人々は、職場における働きがいの意味をはるかに越えた、人生全体の「生きがい」や「幸せ」の意味について、根本的に自問し始めるのである。
    それまで、いかなる価値観変革の技法を駆使しても頑として揺るがなかった各人の自我が、劇的に固い殻を脱ぎ捨ててゆく光景を目前にするたびに、私はそこに何か偉大な力の介在を感じないではいられなかった。
     その後、私は、これらの情報を潜在的に求めている人々が、世の中にいかに多いかという現実を思い知らされることになった。とりわけ、大きな試練に直面している人や、突然の不幸に見舞われた人、挫折感に打ちひしがれている人ほど、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する科学的知識を、大いに心の拠り所としていることが判明してきた。
     大学教官という立場から、人々の相談を受けることは数多い。しかし、恋人に去られた女性、志望校に落ちた受験生、希望企業に入社できなかった四年生に対してさえも、一個人として差し延べる手だては限られている。ましてや、障害を持つ方やその御両親、事故で手足を失った若者、夫に先立たれた新妻、不治の病に冒された患者さんたちを、ほんの小さな存在にしかすぎない私の力で、どうやって元気づけることができるだろうか。
     もちろん、「元気を出して頑張れ」と激励することはたやすい。けれども、生きがいを見失った人々は、「生きる力の源泉」そのものを喪失していることが少なくない。いわば電池の切れた装置が、スイッチを入れても動かないのと同じ状態であり、ただ「いつまでもスイッチを切っていないで入れてみろよ」と声をかけるのみでは、抜本的な効果は望めないのである。このような、生きがいの源泉を喪失した人々は、周囲のどこにでも存在する。企業の中にも、学生たちの中にも、家族や親族の中にも。そして、今日は希望に満ちあふれている親友が、もしかすると、明日には全てを失い倒れてしまうかもしれない。
     現在、私は、「死後の世界」や「生まれ変わり」に関する科学的研究成果について聞きたいという希望があれば、どこにでも駆けつけ、もちろん無償で、これらの情報を丁寧にお話しすることにしている。
    その際には、まず、トロント大学医学部精神科で主任教授を勤めるジョエル・L・ホイットン博士の、次の言葉を紹介することから始める。
     「生まれ変わりが真実だという証拠については、そのほとんどが状況証拠ではありますが、きわめて有力なものがそろっている現在、理論的にこれを認めることに、特に問題はないと思われます。どうか皆さんも、私と同じ結論に到達されるようにと願っています。すなわち、私たちはかつて前世を生きたことがあり、おそらく、来生をもまた生きるだろう、そして今回の人生は、永遠に続く鎖の、ほんの一部でしかない、と。」

 この言葉に続けて、死後の世界に関する近年の事例を幅広く分析し、肯定論者と否定論者の主張を客観的に検討したジョージア大学教授のロバート・アルメダー博士が、1992年に下した次のような結論を紹介することにしている。
 「我々は現在、人類史上初めて、人間の死後生存信仰の事実性を裏づける、きわめて有力な経験的証拠を手にしている。このことが、哲学や倫理学における今後の考察に対して持つ意味は、きわめて大きい。人間が死後にも生存を続けるという考え方は、誰にでも認められる証拠によって事実であることが証明できるばかりか、誰にでも再現できる証拠によって、事実であることがすでに証明されているのである。」

 彼等が結論づけたように、もしも「死後の生命」や「生まれ変わり」が事実であるならば、我々の人生観は、どのような修正を余儀なくされるだろうか。日常の小さな不満はどのように無意味化され、何の価値も持たないように見えた不幸や挫折が、いかなる重要な意味を帯びてくるのだろうか。本稿では、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する近年の科学的研究の成果を紹介することにより、その内容が我々にとって、他の何にも代え難い、強力な「生きがいの源泉」となる事実を示していきたい。
 なお、本稿では、いわゆる霊能者や宗教家、民間のセラピスト(治療家)やジャーナリスト(報道関係者や評論家)、あるいは文化人や芸能人が書いた文献は、一切取り上げない。それらの著作の中にも、読み物として優れたものがあることは否定しないが、あくまでも学術的かつ客観的な立場を守るために、名の通った大学の教官、博士号を持つ研究者や臨床医の研究のみから引用し、一般人の体験者自らが本名で記した具体的記録を若干加えながら構成する。しかも、決してそれらの研究を盲信するわけではなく、信頼度が低いと判断される文献や、実証的でなく主義主張の水準にとどまっている文献は、たとえ興味深い内容であっても容赦なく排除した。
 また、私は家族も含めていかなる宗教にも帰依しておらず、正月には神社に詣で、盆には寺に参り、クリスマスにはツリーを飾る、典型的な「雑宗教」の日本人として生活している。ある時に個人的な超常体験に遭遇して以来、いわゆる「魂」の存在は具体的な実感として認識しており、本稿も「魂」たちの強い勧めに勇気づけられて記すものであるが、私自身や本稿の内容は、いかなる宗教団体とも全く関係がないことを重ねて強調しておきたい。

第1 節「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する実証的研
究の系譜

 人間の死後存続に関する科学的研究は、大きく2通りに分けることができる。第一に、「物理的肉体を失った後にも、意識(いわゆる魂)として存在し続けること」を研究する場合。そして第二に、「物理的肉体を失った後にも意識(魂)として存在し、再び肉体を持って生まれ変わってくること」を研究する場合である。全社は「死後の生命」に関する研究であり、後者は「生まれ変わり」、あるいは仏教的観念を借りて「輪廻転生」と呼ばれるものに関する研究である。
厳密には、研究者によって観点や姿勢が異なっているが、本稿の目的はそれらの相違を整理することではない。むしろ、「観点や姿勢が異なるにも関わらず、数多くの研究者達から同様の研究成果が報告されている」という興味深い事実に着目するため、混乱を避けて、上記2分類の紹介にとどめておきたい。
これらの研究は、19世紀以前にも、いわゆる幽霊や死者との通信などの研究として行われており、中には説得力を持つものも見受けられるが、往々にして、宗教的動機や通俗的興味と結びつきがちであった。私が見るところでは、宗教的動機や通俗的興味を持たない純粋な学術研究であり、しかも客観的データの蓄積と分析という科学的方法論を伴う研究は、臨床医学の領域から始められたと言ってよい。それが数多くの研究者へと拡がり、真に実証性を高めてきたのは過去10年から20年くらいの間であるが、その端緒は、前世紀の終わりにまでさかのぼる。
 その始まりは、1890年代にアルベール・ド・ロシャが行った、退行催眠(詳細は後述)を用いて被験者(患者)たちの過去の人生を思い出させる研究であった。被験者たちは、過去に存在したと思われる場所や家族の名前をあげて信頼できそうな証言をしたが、その人生が実際にあったものかどうかを証明できなかったため、ロシャは、新しい科学の黎明期に誰もが直面する暗中模索状態に陥ってしまった。ロシャの驚くべき試験的研究の成果について、当時の精神科医や心理学者たちは、被験者が過去生を思い出したのは精神の錯乱が原因だと考えたのである。
 しかし、20世紀の中頃になると、アレクサンダー・キャノン博士によって、再び、生まれ変わりの科学的研究が始められた。催眠を用いて、1,300人以上の被験者を、紀元前何千年という昔の記憶にまで退行させることに成功したキャノン博士は、1950年にこう結論づけた。
 「何年もの間、生まれ変わり仮説は私にとって悪夢であり、それを否定しようと、できる限りのことを行った。トランス状態で語られる光景はたわごとではないかと、被験者たちとの議論さえした。あれから年月を経たが、どの被験者も信じていることがまちまちなのにもかかわらず、次から次へと私に同じような話をするのである。現在までに1,000件をはるかに越える事例を調査して、私は生まれ変わりの存在を認めざるを得なかった。」
 キャノン博士は、過去生への退行催眠によって、被験者たちの精神症状(原因不明の恐怖症など)が治癒されることに着目し、1970年代から80年代にかけて、何千人もの恐怖症患者を治癒した。この事実が、「過去世療法」として知られるようになり、臨床心理学者のイーディス・フィオレ博士によって「もしも誰かの恐怖症が、過去の出来事を思い出すことで即座かつ永久的に治癒されたら、その出来事が実際に起きたに違いないと考えるのが理にかなっている」と支持されたように、生まれ変わり仮説の信憑性が徐々に研究者たちからも認められていったのである。
 同じ時期に、ヴァージニア大学医学部精神科主任教授のイアン・スティーブンソン博士は、過去世の記憶を偶発的に語った幼児の事例を世界中から収集していた。例えば、身体のどこかに「あざ」を持つ200人以上の子供が過去生の記憶を持っており、彼らは一つ前の過去生(前世)において、あざと同じ箇所に弾丸や刀剣などの武器が貫通して殺されたのだと証言したのである。そのうち17の事例について、子供たちが「前世ではこの人物だった」と主張する実在の人物が、実際に証言通りの死に方をしたことを証明するカルテを入手することができた。その後の長年に渡る研究の末、スティーブンソン博士は、1987年に発表した著書において、次のように言明するに至っている。
 「私たちがこれまでに入手している生まれ変わりの証拠からすると、生きている人間には心、あるいは、そう呼びたければ魂というものがあり、この世ではそのおかげで活動でき、死後にも生存を続けることができるということのようである。
これまでに蓄積されてきた死後生存の証拠を、他の分野の科学者が先入観抜きで検討すれば、『人間は肉体以外の何者でもない』というような憶測を除いては、失うものは何もないと思う。少なくとも私が考える生まれ変わりは、進化論や遺伝学の知識を無にするものではない。」
 また1978年には、モーリス・ネザートン博士も、生まれ変わり仮説を認めざるを得なくなった経緯を告白し、「自然は一千万年かかってグランドキャニオンを創りあげたのに、人間の魂が70年や80年で形成されるとは信じられない」
と述べた。
 1979年になると、臨床心理学者のヘレン・ウォムバック博士によって、生まれ変わり仮説を統計的に実証する画期的な研究結果が発表された。何百人もの被験者に退行催眠を行い、現在の性別には関係なく、紀元前二千年にまでさかのぼって退行したときのいくつもの人生の記憶に基づいて性別を記録してみたところ、50.6%が男性、49.4%が女性として生きた時の記憶であることが判明したのである。
このように、互いに無関係な多数の被験者たちの過去生の記憶の総和が、男女比にしてほぼ同数であったことは、彼らの記憶が各人によって創作された嘘ではないことを物語っていた。
 しかも、ウォムバック博士の被験者たちの多くは白人の中流アメリカ人であるにもかかわらず、過去生の記憶の数々は、世界における人種や階級、人口分布と言った歴史事実を正確に反映するものであった。
さらに、被験者たちが報告する、当時の人生で使用していた衣服、履物、食器などは、どの時代のものについても、みな歴史的事実と一致していた。この統計的研究の結果、ウォムバック博士は、「道路の脇のテントにいるあなたに、1,000人の通行人が『ペンシルバニア州の橋を渡った』という話をしたならば、あなたはペンシルバニア州には橋があるという事を納得せざるを得ないでしょう」という例え話を用いて、生まれ変わり仮説の客観的実証性を認めたのである。
 人間の心には、本人が認識できない無意識の領域があり、心の傷(トラウマ)が抑えつけられたままで無意識の領域に蓄えられ、神経症の症状という隠れ蓑を被って表面に現れる。従来の精神分析では、自由連想法や夢分析などによって無意識下に記憶された幼児体験を探って治療に役立ててきたが、過去生療法ではこれを一歩進め、催眠を用いて過去の人生にまでさかのぼらせて原因を探る。ただし、被験者を過去生にまで退行させるためには相当な力量の催眠技術が必要であり、しかも、被験者全員が過去生の記憶を思い出すほど深いトランス状態に入ることのできる体質を持っているとは限らないため、誰もがどこでも気軽に過去生療法を受けるところまで一般化するには至っていない。
 しかし、1980年代には、過去生療法を専門に研究するAPRT(アメリカ過去生研究治療協会、American AssociationFor Past Life Research and Therapy)がカリフォルニアに設立され、機関誌として"The Journal of Regression Therapy"が発行されるに至り、研究者の注目を集めるようになった。
 そして1986年に、それまでの過去生研究の成果を集大成したのが、トロント大学医学部精神科主任教授のジョエル・L・ホイットン博士である。詳細は後述するが、すでに他分野で高い評価を受けていたホイットン博士は、生まれ変わり現象の存在を「証明された事実」として公然と認めたうえ、長年の実証研究によって明らかにした「中間生」(あの世)の存在や、生まれ変わりの仕組みに関する膨大な情報を公開した。
 また1987年には、アイスランド大学助教授のエルレンドゥール・ハラルドソン博士らによって、アメリカとインドから収集した1,000件もの臨死体験の比較研究が公表され、「両国の患者の体験した臨終時のビジョンに見られる現象の間に、死後生存仮説を裏づけるに足る明確な類似点を観察することができた」と明言された。
 翌1988年には、マイアミ大学医学部精神科教授、シナイ医療センター精神科部長のブライアン・L・ワイス博士によって、生まれ変わりなど全く信じていなかった博士が、その信憑性を認めざるを得なくなった体験の数々が発表された。
本書は全米でベストセラーとなったばかりか、同じ結論に達していながらも科学者としての地位を失うのを恐れて公表を控えていた世界中の研究者たちに勇気を与え、生まれ変わりの研究が広く認知されていく起爆役を果たした。ワイス博士は1992年に続編も出版している。

 やがて1990年代に入ると、インド国立精神衛生神経科学研究所助教授のサトワント・パスリチャ博士によって、空想、不正行為、遺伝的記憶、潜在的記憶、記憶の錯誤、偽装などの従来の仮説では説明のつかない「生まれ変わり事例」が確かに存在することが明らかにされ、生まれ変わり仮説の正当性が重ねて実証された。
 また1992年には、国際トランスパーソナル学会の初代会長であったスタニスラフ・グロフ博士が、催眠という方法以外に、薬物を投与しトランス状態へと導くことにより、被験者を過去生の記憶にまでさかのぼらせることができるという研究結果を発表した。自らも実験台となり、過去生を体験したグロフ博士は、「非日常的な意識状態(催眠状態や薬物を投与された状態)において過去生の体験をした人々を長年観察してきた結果、私はこの魅惑的な分野の正当性を確信するようになった。過去生という現象がきわめて妥当なものであること、過去生の知識が我々の葛藤を解決し、現在の人生をより良いものにすることを確信させてくれる事例を、いくつも紹介できる」と明言している。
 そして1994年には、臨死体験の代表的研究者の一人であるレイモンド・ムーディ博士による、5年間に渡る驚くべき研究成果が発表された。ムーディ博士は、ある手法を用いて、この世を去った魂たちとの相互のコミュニケーションが可能であることを、実験室において科学的に実証したのである。
「本書で説明されているテクニックを使えば、かなりの方が実際に愛する故人との再会を果たすことができるだろう。被験者は死者とじかに接触でき、その体験の真実性を自分で評価することができる」と語るムーディ博士の言葉からもわかるように、弁護士や大学院生など信頼できる300人以上の被験者の半数以上が、一回目の実験で数分から数十分に渡って死者の魂との具体的な会話に成功し、4回目の実験までには、被験者のほぼ全員が、目前に存在する魂を自分の目や耳で確認したと証言している。
 被験者の中には、自分自身がそれまで決して知らなかった情報や知ることのできない情報を死者の魂から教えられ、後日その情報の正確さを確認したものも少なくなかった。さらに、被験者たちが実際に会うことができるのは、被験者自身が「この人に会いたい」と願った人物とは限らず、むしろ先方(現在は他界して魂の状態でいる故人)が再会を強く望んでいる場合に現れてくることがわかった。
しかも、まだこの世に生きている人物や、かつて一旦は他界したのだが現在再びこの世に生まれ変わっていると思われる人物は、当然ながらいくら願っても現れてくれず、代役の魂がその旨を伝えてくれた。これらの事実から、被験者たちが故人に会った体験は、決して精神の錯乱や空想ではないことが証明された。
 被験者たちは異口同音に、「確かに生身の母がいました」「彼の姿はとても明瞭で、60センチほど離れたところにいました」「しっかり実体があって、透き通ったりはしていません。彼は動き回り、立体感がありました」「夢ではありません。私は完全に目覚めていましたし、一瞬のことでもありません」「自分で体験しなかったならば、信じられなかったでしょう。でも、その出来事が現実だったのは間違いありません。私の目の前には、確かに死んだ叔母たちがいたのです」などと語る。
つまり、死んだ魂が、生きている被験者に、何らかの方法で生前の姿を立体的ビジョンとして見せてくれ、様々な会話をしてくれたのである。典型的な実験例の一つを上げると、ある40代後半の女性被験者は、このように証言する。
 「部屋(実験室)に入ったときは、少しびくびくしていました。父はいきなり現れ、私の顔をまともに見つめていました。父は、生前と変わらないひょうきんな口調でこう尋ねました。『おやおや、いったい父さんに何の用だい』と。
父は最初私から1メートルほど離れたところにいましたが、その後もっと近づいてきました。父は私のすぐ前にいたんです。私と父は、そこで極めて個人的な話をしました。ほとんどは母の話でしたが、家庭内のほかの問題についても話しました。父の姿は全身ではなくて、頭から腰のあたりまでしか見えませんでしたが、いまムーディ先生を見ているのと同じくらいはっきりと見えました。父はなんだか面白がっているようでした。
『私の寿命がつきてあの世に行けば父とはいくらでも話せるのに、それが待ちきれなかったんだな』と思ったらしいんです。そうやって30分くらいでしょうか、かなり長い間話し込みました。父は最後に、『これからも楽しい人生を送りなさい』といってくれました。」
 このように、「あの体験は想像ではありません。何から何まで現実です」と300人以上の被験者たちが語るのを受けて、ムーディ博士はその実験施設を「精神の劇場」と命名し、現在では世界中から訪れる多くの人々を、愛する故人と再会させている。
 以上、「死後の生命」と「生まれ変わりに」に関する科学的研究について、その発展の系譜を追ってみた。
ここで紹介しなかった数多くの有力な研究者たちについても、次節以降で、その研究成果を随時引用していきたい。
 いずれにしても、このテーマに携わる研究者たちは、もともと他の分野で高く評価されていた真面目な研究者であり、「死後の生命」や「生まれ変わりに」など信じていなかったばかりか、興味さえも抱いていなかったと語るものが多い。しかも、彼らの多くは、生まれ変わりを認めないキリスト教徒であるため、自らが子供の頃から教え込まれてきた教義に反する研究結果を、勇気を持って公表しているのが実態である。
 現在このテーマに携わる研究者たちの関心は、すでに「死後の生命」や「生まれ変わり」の存在の証明から離れ、その具体的仕組みの解明や、肉体を持たない魂たちとのコミュニケーションの方法へと移っている。
彼らの多くが医学者や臨床医であるためか、既存の価値観に凝り固まった唯物論者や物理学者を説得するという労多くして益の少ない行為よりも、死を目前に控えて怯える人々の心を救ったり、人生に悩む人々へのカウンセリングで活用するための、実用的な知識の解明が重視されているのである。
 その意味では、本稿の目的も、まさに彼らが解明した、「人生を過ごすにあたって役立つ知識」の紹介と検討にある。
それでは、その驚くべき、しかし心洗われるような、数々の研究成果を整理してみよう。

第2節 過去生の記憶
 本節では、退行催眠によって導き出された記憶を中心に、研究者たちの手により過去生の存在をどのようにして確認し得るのかについて例示したい。

1. 退行催眠の方法
 一般に誤解されがちであるが、催眠とは奇術でも魔法でもなく、意識を特定の一点に集中させることにすぎない。訓練を受けたセラピストの誘導によって、被験者あるいは患者の身体が十分にリラックスすると、忘れていた昔の記憶がよみがえってくる。それを思い出すことによって、不安症を軽くしたり、恐怖心を取り除いたりすることができる。
例えば、「水」に対して原因不明の強い恐怖感を抱く患者に退行催眠を試みると、幼い頃にプールで溺れて死にかけたことを思い出す。また、「暗闇」に対して異常な恐怖を抱く患者は、幼少時に暗闇の中で何者かに襲われた記憶にたどり着くのである。
 ちなみに、出生前・周産期心理学協会副会長のデヴィッド・チェンバレン博士は、数多くの被験者たちを出生時や胎児の頃の記憶にさかのぼらせることによって、生まれる前の胎児がすでに母親の声を識別し、生まれたての赤ちゃんが両親の感情を理解していることを発見した。誕生直後に「何だ、男の子だったら良かったのに」などとがっかりする親の感情を敏感に受信し、赤ちゃんは心に深い傷を受け、その傷が後に心身症(例えば男性コンプレックス)の症状として現れることも多いという。
 また、催眠は眠っている状態とは異なり、被験者は自分の経験を全て意識し、被験者はセラピストの言葉に応じて、自分の意志で意見を述べたり、批判したり、自らの記憶を検閲することができる。催眠とは、心の秘密を強制的にしゃべらせるものではなく、記憶を無理やりに創作させることでもない。過去生を思い出す場合にも、映画を見るように自分の過去生を観察する場合もあれば、過去生の中に入り込んで感情的に反応したり、実際に物音が聞こえたり匂いを感じる場合もある。セラピストが催眠中の記憶を消す指示をしない限り、被験者は催眠から覚めた後にも催眠中の体験を全て覚えているし、本人が中止したいと思えば、いつでも自分の意志で催眠状態から抜け出すことができるのである。
 したがって、深い催眠状態で自分の過去生を次々と思い出している最中でも、被験者はセラピストの質問に答え、普段の言葉で喋り、思い出している事柄の場所や時代を知ることができる。そのため、例えば自分が中世ヨーロッパの戦争で戦っている農民だと発見した被験者が、その過去生の中に現在の知人(過去生でも知り合いであった)がいることを見つけ出したり、その過去生で使っていた原始的な武器を現在の武器と比較したり、当時の年月日を詳しく述べたりすることができるのである。言い換えれば、退行催眠の被験者は、過去生という映画の観客であると同時に、主人公でもあり、その映画の批評家であるとも言えよう。

2. よみがえった過去生

(1)過去生退行の一例
 1982年、ブライアン・L・ワイス博士(マイアミ大学医学部精神科教授)が、キャサリンという被験者に退行催眠を行っていたときのことである。ワイス博士は、伝統的な科学観のもとで多数の論文を発表していた真面目な研究者であり、当時、生まれ変わりや死後の生命については、全く信じていなかった。キリスト教徒であるキャサリンも、生まれ変わりなど信じてはいなかった。それまで、キャサリンの水や暗闇に対する恐怖心の原因を探ろうと、幼少の頃まで記憶をさかのぼらせたが原因が見あたらなかったため、ワイス博士は時期を限定せずに、「症状の原因となった時にまで戻りなさい」という漠然とした指示を行ってみた。
ワイス博士は、その時の出来事を次のように記している。
「あなたの症状の原因となった時にまで戻りなさい」
 その後に起こったことに対して、私は全く心の用意ができていなかった。
「建物に向かって、白い階段が見えます。柱のたくさんある白い大きな建物で、前の方は開いています。入口はありません。私は長いドレスを着ています。ごわごわした布でできた袋のような服です。私の髪は長い金髪で、編んでいます。」
 私は。何が何だか、わからなかった。一体、何が起こっているのだろうか。それはいつのことで、あなたの名前は何というのかと、私は彼女に質問した。
「アロンダ・・・・私は18歳です。建物の前に市場が見えます。籠があります。籠を肩に乗せて運んでいます。私たちは谷間に住んでいます。水はありません。・・・・・時代は紀元前1863年です。その地域は不毛で、暑くて、砂地です。井戸があって、川はありません。水は、山の方から谷間に来ています。(中略)・・・・・足にはサンダルを履いています。私は25歳です。私にはクレアストラという名前の女の子がいます・・・・・彼女はレイチェルだわ(レイチェルは現在の彼女の姪であり、とても親密な関係にある)。」
 私(ワイス博士)はびっくりした。胃がきゅっとと縮み、部屋の中がとても熱く感じられた。彼女の見ているビジョンや思い出は、非常にはっきりしているようだった。あやふやな所は全くなかった。名前、時代、着ているもの、木、全てがありありとしていた。何が起こっているのだろう。その時の彼女の子供が、現在の姪だなんてことがあり得るのだろうか。私は、ますますわけがわからなくなった。それまで、何千人もの精神病患者を診てきたし、催眠療法も数えきれないほど行ったが、こんなに見事な幻想には、夢の中の場合でさえ、一度も出会ったことはなかった。
時をもっと先に進めて、死ぬ場面に行くようにと、私は指示した。私は彼女の症状の原因になった事件を捜していた。
「大きな洪水が木を押し倒していきます。どこにも逃げ場はありません。冷たい。水がとても冷たい。子供を助けないと。
でもだめ・・・・子供をしっかりと抱きしめなければ、おぼれそう。水で息がつまってしまった。息ができない。塩水で、飲み込めない。赤ん坊の身体が、私の腕からもぎ取られて行ってしまった!」
 キャサリンはあえぎ、息ができなかった。突然、彼女の身体がぐったりして、呼吸が深く安らかになった。
「雲が見えます。・・・・・私の赤ん坊も一緒にいます。村の人達も。私の兄もいます。」
 彼女は休んでいた。その人生は終わったのだった。私は驚き、あきれていた。過去生だって?輪廻転生だって?しかし、彼女が幻想を見ているのでもなければ、物語を創作しているのでもないことは、医者としての知識からも確かであった。医学のあらゆる事例が私の心をよぎったが、彼女の精神状態や性格からは、いま起きたことを説明することはできなかった。
 これらは、ある種の記憶に違いなかった。しかし、どこから来たものなのだろうか。自分がほとんど知らない分野、つまり、生まれ変わりや過去生の記憶といったものにぶつかったのではないか、と私はとっさに思った。
でも、そんなはずはない、と自分に言い聞かせた。科学で仕込まれた私の理性が拒否していた。しかし、現実に、目の前でそれは起こっているのだ。私には説明できないけれど、現実を拒否することもできなかった。
「もっと続けてください。」
 少し気分が悪かったが、起こっていることに興味があった。
「ほかに、何か想い出せますか?」と聞くと、彼女は断片的に、その他の2つの人生を思い出した。
 ワイス博士は、このようにして、退行催眠の被験者が「過去生の記憶」を思い出す瞬間に初めて出会った。
科学者として、生まれ変わりや死後の生命など全く信じたくはなかったワイス博士であったが、その後も催眠療法を続けるうちに、トランス状態に入ったキャサリンが、他人が絶対に知ることのできないワイス博士の個人的な秘密を、次々と当ててしまったのである。しかも、次のように、キャサリンはそれらの秘密を、彼女のいう「マスター」(あの世にいる指導役の魂たち)に教わっているという。
 鳥肌が立つ思いだった。こうした情報を、キャサリンが知っているはずがなかった。どこかで調べることができるような情報でもなかった。父のヘブライ名、1,000万人に1人という心臓欠陥のために死んだ息子のこと、私の医学に対する不信感、父の死に方、娘の命名のいきさつなど、どれもあまりにも個人的なプライバシーに関する事柄ばかりだった。
この何も知らない検査技師の女性(キャサリン)は、超自然的な知識を伝える媒体なのだ。もしも、彼女がこのような事実を明らかにできるのであれば、他にどんなことがわかるのだろうか。私は、もっと知りたかった。
「誰がそこにいるのですか。誰がそんなことをあなたに教えてくれるのですか?」
「マスターたちが私に教えてくれます。彼らは、私が、肉体を持って86回生まれていると言っています。」
 その後、キャサリンの口を通じて、中間生(あの世)にいる「指導役の魂」たちが、ワイス博士の問いかけに対して直接に解答をくれるまでになっていく。その興味深い内容については、次節以降で他の研究者の業績を絡めながら紹介したい。
 ワイス博士は、目前の現象をあらゆる角度から疑ってみたが、ついに認めざるを得なくなり、他の多くの被験者た
ちにも過去生への退行催眠を試みてみた。その結果、退行催眠という治療法を必要とする患者の60パーセント程度は、過去生にまでさかのぼらなくても、今回の人生の幼少期の記憶を思い出すことで治癒できることを確認した。
しかし、残る40パーセントの患者については、過去生にまでさかのぼらなくては心の傷の原因がわからないことを発見し、「今回の人生に限定した退行催眠を行っていては、どんなに優れたセラピストでも、患者を完全な治癒に導くことは不可能だ」と述べる。医者、会社役員、弁護士、セラピスト、主婦、工員、セールスマンなど、宗教や地位、教育水準、信条などの異なる数百人もの被験者に個別に退行催眠を行い、その何倍もの人々に対してグループで退行催眠を行って
みたところ、ほとんどの患者が過去生を思い出したという。そして、それぞれの被験者が、様々な恐怖症、パニック、悪夢、原因不明の恐れ、肥満、対人恐怖、肉体的苦痛や病気などから解放されたのである。
その過程で、ワイス博士は、何度もの人生にまたがる、次のような現象を見つけ出した。
 「私の患者の多くは、催眠状態で、何回もの過去生において、様々な形で繰り返されている異なったトラウマ(精神的な外傷)のパターンを、いくつも想い出している。そのパターンの中には、父と娘の近親相姦が何世紀にも渡って続き、今回の人生でもそれが繰り返されているというものがある。また、過去生での暴力的な夫が、今回の人生では暴力的な父親として現れるというパターンもある。アルコール中毒によって過去生で何度も破滅したというのもあれば、ある不仲な夫婦の例では、2人は過去4回もの人生で、互いに殺し合っていたことがわかった。」
 このような、いくつもの人生に渡る因果関係(宗教的にはカルマと呼ばれる)の存在については、他の研究者の同様の発見と絡めながら後述する。

(2)過去生記憶の妥当性
 ジョエル・L・ホイットン博士(トロント大学医学部精神科主任教授)は、ハロルドという被験者が、退行催眠によって過去にヴァイキングであった人生を想い出しながら口にした、当時の言葉を書き留めておいた。
ハロルドは、自分が思いだした22の語句について、どれも理解できなかった。そこで、専門家に鑑定を依頼してみたところ、アイスランド語とノルウェー語に詳しい言語学の権威が、それらのうち10の語句について、ヴァイキングが当時使用した言語で現代アイスランド語の先駆となった古い北欧語であることを確認した。他の語句については、ロシア語、セルビア語、スラヴ語から派生したものであり、ほとんどはヴァイキングが使用した海に関する語句であることが確認された。
 これらの語句はすでに現存しておらず、一般人であるハロルドが今回の人生で知り得たはずもないため、退行催眠によって導き出された過去生の信憑性を証明する強力な証拠となる。退行催眠で過去生を思い出しながら、今回の人生では知り得ない言語を喋り始める被験者は数多いが、その言葉は世界中の広範囲に広がっており、古代中国語やジャングルで使われる方言までもが含まれているという。
 なお、イアン・スティーブンソン博士(ヴァージニア大学教授)は、退行催眠という方法を用いないで過去生の存在を証明しようと努力している。彼は、今回の人生では知り得ないはずの外国語(真性異言)を話す奇妙な子供たちの存在に着目し、世界中から集めた事例を極めて詳細に調査分析した後、少なくとも3つの事例が十分に信頼できる科学的事例であることを検証して、1994年に次のように結論づけた。
 「通常の手段で習ったことのない、母国語以外の言葉を話す人たちは、実際の練習によって、どこか別の場所でその言葉を習ったに違いない。それは、前世の時代なのではないだろうか。それゆえ、信憑性のある応答型真性異言の事例は、人間が死後にも生存を続けることを裏づける最有力の証拠の一端になると、私は信じている。」
 この結論に基づき、スティーブンソン博士は、生まれ変わりの概念について、次のような仮説を立てている。
 「宇宙には、物質的世界と心理的(あるいは精神的)世界の、少なくとも2つがある。この2つの世界は、相互に影響を及ぼし合う。我々がこの世にいる場合は、肉体と結びついているために、肉体なしには不可能な経験はさせてくれるであろうが、心の働きは制約を受ける。死んだ後には、肉体の制約から解き放たれるので、心理的(精神的)世界のみで暮らすことになるであろう。そして、その世界でしばらく生活した後、その人たちの一部あるいは全員が、新しい肉体と結びつくのではないだろうか。それを指して我々は、生まれ変わったと称するのである。」
 また、サトワント・パスリチャ博士(インド国立精神衛生神経科学研究所助教授)も、過去生の記憶を持ち「前の両親を覚えている」と主張する人物の事例を45例も収集し、綿密な科学的調査分析を行った。
その結果、生まれ変わりを自覚する人物は、自らが記憶するという過去生について具体的な事柄を語っており、45例中38例では、前世(一
つ前の過去生)における名前を突き止めることができ、生存する関係者によって、その発言内容の正確さが確認された。5名の人物は、前世でも現世と同じ家族の一員であったことを記憶しており、前世の人物の直系の子孫であると主張した。残る40例では、双方の家族は地理的にも家系的にもかなり隔絶されていた。
 ちなみに、前世を記憶する人物のほとんどが、食べ物、衣服、人物、遊びなどに関する好き嫌いや、刃物、井戸、銃などに対する恐怖症など、異常な行動的特徴を持っていたという。
その行動は、今回の人生における家族から見ると奇妙な行動であるが、前世に関する本人の発言とは一致しており、大半は、前世におい
て死亡したときの状況に関していた。例えば、刃物に対する恐怖感を抱いている場合は、前世で刃物によって殺されていたことが判明した。前世で死んでから今回生まれ変わるまでの期間は、平均で14.5か月であったが、最短で1日、最長では224か月と、人によってかなりの差がみられた。
 一方で、スタニスラフ・グロフ博士(国際トランスパーソナル学会初代会長)は、退行催眠ではなく、薬物の投与によって被験者をトランス状態へと導き、過去生の記憶を思い出させることに成功した。その記憶を検証した結果、彼は次のように指摘する。
 「生まれ変わりについては、観察可能な事実がある。例えば、我々は、非日常的な意識状態(トランス状態)で、鮮明な過去生の体験が自然に起こることを知っている。こうした体験は、客観的に確かめることができる、我々自身の過去生についての正確な情報を含んでいることが多い。多くの情緒障害は、現在の人生よりも、むしろ過去生の体験にその根を持っており、それらの障害に起因する症状は、その根底にある過去生の体験を再体験すると、消滅するか軽減されるのである。」
 以上のように、過去生の記憶の正当性については、退行催眠による研究結果からのみならず、過去生の記憶を持つ子供たちの調査結果や、特殊な薬物の投与によるトランスパーソナル効果の実験結果からも裏づけられている。
 ここでは詳しく引用しないが、被験者たちが語る過去生の内容は、かつてその時代に生きていたことを確証させるに十分なほど、具体性と主体性に富んだものである。しかも、ただ過去の人生をいくつも思い出すだけでなく、肉体を持ってこの物質世界に生まれていた人生と人生の間に、いわば「魂」の状態として経験した不思議な出来事を、ありありと思い出す被験者も少なくない。
 それでは、その驚くべき証言内容を、次に整理してみよう。

第3節 「生まれ変わり」の仕組み
 本節では、ジョエル・L・ホイットン博士(トロント大学医学部精神科主任教授)が、数多くの被験者に対する退行催眠から解明した調査結果を中心に、他の研究者たちの報告を交えながら、「生まれ変わり」の仕組みについて整理してみよう。

1.「あの世」への帰還
(1) 「魂」としての自覚
 ホイットン博士は、退行催眠を用いて、数多くの被験者から何千年にもわたる過去生の個人記録を調査しているうちに、ある重要な事実を発見した。それは、被験者たちが肉体に出たり入ったりして経験した過去の試練や成功、失敗などが、全て現在のその人物の人間形成に役立っているということである。各人の生まれ変わりの経歴をたどっていくと、一見それぞれの人生に全く脈絡がないように見えても、実は大きな理由があったのだと言うことが、必ず明らかになったという。ある人生での行動や態度が、現在あるいは将来の人生での、環境や挑戦目標を決定していたのである。
 ホイットン博士が、偶然に「中間生」(あの世)の存在を発見したのは、ポーラ・コンシディンという42歳の女性に
退行催眠を行っているときであった。ポーラは、安定した気質の持ち主で、深い催眠に入ることができ、暮らし方や趣味、行動などもごく普通な、北アメリカの典型的な主婦であった。彼女は、ホイットン博士から通算100時間以上にのぼる退行催眠を受け、自分の長い転生の歴史を、理路整然と物語った。
 ポーラの口から語られた過去生をたどっていくと、古代エジプトの奴隷の娘として生きた時にまでさかのぼったが、ほとんどが女性としての人生であった。例えば、「テルマ」という名前の人生では、ジンギスカンの時代のモンゴルの族長の娘であったが、16歳の時に戦で殺された。また、1241年に34歳であった「オーガスタ・セシリア」という名前の人生では、一生のほとんどをスペイン国境近くのポルトガルの孤児院で過ごした尼僧であった。さらに、1707年に17歳であった「マーガレット・キャンベル」と言う名前の人生では、カナダのケベック市郊外に住み、のちの毛皮を商う猟師と結婚した。
 そして、ポーラが、1822年にアメリカのメリーランド州の農場で生まれ、若くして農家の階段から転落死した「マーサ・ペイン」という名の娘であった人生を回想しているときであった。ホイットン博士は、何気なく「あなたがマーサ・ペインとして生まれる前に戻ってください」と指示してみた。しかし、正しくは、「マーサ・ペインとして生まれる前の人物に戻ってください」と指示するべきであった。いわば「生まれる前に戻ってください」と、間違った指示
を受けたポーラは、突然、こう語り始めたのである。
 「私は・・・・・空の・・・・・上にいます。農場の家や納屋が見え・・・・・朝早くて・・・・・太陽は昇り始め
たばかり・・・・・。刈り取りを終えた畑は、真っ赤に・・・・・真っ赤に染まって・・・・長い影ができています・・・・。」
 ポーラが、空の上などにいるはずがない。すっかりうろたえた博士は、途方に暮れて、さらに尋ねてみた。
 「あなたは、空の上で何をしているのですか。」
 「私は・・・生まれるのを・・・待っています。母のすることを・・・見ているところです。」
 「お母さんは、どこにいるのですか。」
 「母は・・・・ポンプの所で・・・・バケツに水を入れています。とても、大変そう。」
 「なぜ、大変なのですか。」
 「私の身体の重みで・・・・おなかに気をつけてと母に言ってあげたい・・・・母体のためにも、私のためにも・・・・・。」
 「あなたの名前は?」
 「名前は・・・・・まだ、ありません・・・・・。」
 このように、自分が自分の上空に浮かんでいる記憶を持つ被験者は、前出のワイス博士による退行催眠実験においてもしばしば確認されているが、いわゆる「臨死体験」の研究でも頻繁に報告されてる。例えば、ワシントン大学小児科助教授のメルヴィン・モース博士は、薬物の副作用で意識を失った女性の、次のような体験を報告している。
 「見おろすと、病院のベッドに横たわっている自分の姿が見えたんです。まわりでは、お医者さんや看護婦さんが忙
しく働いていました。機械が運ばれてきて、ベッドの足元に置かれるのが見えました。箱みたいな形で、ハンドルが2つ突き出していました。牧師さんが入ってきて臨終の祈りを唱え始めました。私はベッドの足元に降りていって、劇の観客のように一部始終を見ていました。ベッドの足元の壁に、時計がかかっていました。私にはベッドに寝ている自分の姿も、時計もよく見えました。午前11時11分でした。その後、私は自分の身体に戻りました。目が覚めた時、ベッドの足元に自分が立っているんじゃないかと捜したのを覚えています。」
 また、ダラス市民病院の医長を勤めたラリー・ドッシー博士の確認によると、手術中の緊急事態で1分間ほど心臓が停止したサラという女性患者は、全身麻酔で意識を失っていたにもかかわらず、手術室の光景を確かに見ていたうえ、手術室から抜け出て他の部屋までさまよったという。心臓が停止したときの外科医と看護婦の緊迫したやりとり、手術台にかかっていたシーツの色、主任看護婦のヘアスタイル、各部屋の配置といった手術室内部のことのみならず、手術室外の廊下の手術予定表に書いてあった走り書きや、廊下の端にある医師控え室で手術が終わるのを待っていた外科医の名前、麻酔医が左右別々の靴下を履いていたというような些細なことまで、サラの証言はどれも正確なものであった。しかも、これらの情報は、例えサラに意識があったとしても、決して見えるはずのないものであった。なぜなら、サラには、生まれつき視力がなかったためである。
 なお、18種類もの学位を持つエリザベス・キューブラー=ロス博士の研究によると、過去10年以上も視力がなく目の見えない患者たちが、臨死体験中に、自分を見舞いに来た人々の洋服や宝石の色、セーターやネクタイの色や形までを確かに「見」て、正確に描写することが証明されている。
 さらに、エモリー大学心臓学教室助教授のマイケル・B・セイボム博士は、臨死状態で自分の身体の上空に浮かんで様々なものを見た患者たちについて調査し、「肉体から抜け出している間、本人の意識は、肉体ではなく『分離した自分』の中にあるのだが、完全に覚醒しており意識水準も高く、驚くほど思考が明晰になる。」と報告している。

(2) 「あの世」の心象
 ホイットン博士は、その後の研究で、多くの被験者たちが、肉体を持たず意識として覚醒している「中間生」、いわゆる「あの世」の記憶を残していることを認識した。催眠状態に入った被験者を、まず過去生の一つへと連れ戻して、その人生の最後の場面を思い出させた後に、「今どこにいますか」「何が見えますか」と質問していくのである。
 死の瞬間を回想し、眉をしかめたり顔をゆがめるなど苦悶の表情を浮かべていた被験者たちは、死後の中間生の記憶へと移るにつれて、表情を一変させる。まず無表情になり、次に安らいだ穏やかな顔に変わり、やがて驚きが満面に広がる。中間生では、時間の経過や三次元的感覚がすっかり欠落するため、被験者たちは、目の前の光景をどのようにしてホイットン博士に説明すればよいのかわからなくなる。ある被験者は、「中間生では目に見える身体というものはありません。私はイメージに取り巻かれた観察者なのです。」と表現する。ある大学教授は、被験者として退行催眠を受け、何百年も前のアメリカ南西部のインディアンとして生きた人生を回想し、その最後を次のように再体験した。
 「ほかの三人のインディアンになぶり殺しにされ、手足を切断された私は、怒り狂って身体の外へと浮かび出ました。
もっと鍛練を積み、体調も良ければ助かったのに・・・・・。」
 このように、非業の死を遂げた場合、そのショックは、当惑や怒り、自己憐憫、復讐心などの欲望を引き起こすため、死んで身体から抜け出た魂を、この世に引き止める原因になってしまうと言う。いわば「死を自覚できないままこの世に留まっている魂」のことを指しており、このような魂が実際に存在することは、前出のワイス博士らも研究結果に基づいて指摘している。俗に言う「地縛霊」の実在が、科学的にも説明されたことになる。
 また、被験者たちは、繰り返しこう述べる。身体から抜け出した後、下に横たわる自分の身体を「見」てから、トンネルのような円筒状のものを急速で通過し、大勢の見知らぬ人々(すでに肉体を持たない魂たち)と合流する。
この時、すでに他界していた身内の者や友人の魂、あるいは自分の人生を見守ってくれた指導役の魂たちが、自分の到着を迎えてくれる。その際に見る光景は、光のドームに入ったり、素晴らしい色彩を見たり、キリストが両手を広げて出迎えてくれたり、宮殿や庭園を見る者もいる。これらは、もちろん現実の場所や物質ではなく、非物質的イメージがシンボル化されたものにすぎない。
 言い換えれば、自分にとって、「自分は死んで、中間生へと戻ってきたのだ」と自覚するために最適なビジョンが、ここで目前に浮かんでくることになる。指導役の魂たちが、死者が死を自覚して安らぐために必要なビジョンを、意図的に見せてくれているとも考えられる。終えたばかりの人生で属していた文化や、信じていた宗教などによって、「死を自覚して安らぐために最適なビジョン」が異なるため、当然ながら、その時に見る(指導役の魂たちから見せられる)「あの世の光景」も様々なのである。

(3)先立った魂との再会
 京都大学助教授のカール・ベッカー博士によると、臨死体験をした患者たちの中にも、他界していた近親者と出会ったものが数多いという。代表的事例を引用してみよう。
 「主治医が、私のことをあきらめて、『もう死亡している』と親類に告げました。私の身体は反応しませんでしたが、私はその話を全て聞いていました。医者がもうダメだと言った瞬間に、私は意識が鮮明になった気がします。しかし、今度は自分が亡くなった人々に囲まれていることに気づきました。今は亡き多くの親類たちの中でも、私のすぐ前に立っていた祖母と、学生時代の同級生であった女性が特に目立っていました。みなの背格好の全てはよく見えませんでしたが、彼らの顔ははっきりと認識できました。そして、みなと一緒にいるのだと言う気持ちを強く感じました。みなは喜んでくれ、私は大変幸せな一時を過ごしました。」
 ベッカー博士によると、瀕死の状態から回復した患者が、臨死体験中に「まだ生存しているはずの親類や友人に出会った」と発言することがしばしばある。周囲の者は、最初はその話を信じないが、患者が瀕死の状態に陥る前にその人物がちょうど死亡していたことを、後から知って驚くという。つまり、瀕死の患者が臨死体験を通じて、知るすべもない遠方の人の死を誰よりも早く知ったのである。ベッカー博士は、このような現象を根拠として、臨死体験が単なる夢ではないことを明言している。
 また、エリザベス・キューブラー=ロス博士は、なんと2万件にものぼる臨死体験の研究をもとに、「誰もひとりぼっちで死ぬことはない」と述べ、次のように明言する。
 「肉体から離れると、時間のない所での存在となる。つまり、時間はもはやなくなる。同じように、普通の意味で空間や距離を語ることもできなくなる。なぜなら、それらはすべて、この世における現象だからである。
例えば、アメリカの青年がアジアで亡くなり、ワシントンにいる母親のことを思ったとしよう。彼はその思念の力によって、ほんの一瞬のうちに何千マイルもの距離を渡り、母親のもとへ行くことができるのである。」
 キューブラー=ロス博士によると、この現象を実に多くの人々が経験しているという。何千マイルも遠くに住んでいたはずの人が、突然、目の前に姿を現す。すると翌日になって、前日に姿を現した人が亡くなったという知らせが、電話や電報で届くのである。
 「この段階にくれば、誰もひとりぼっちで死ぬことはないと言うことが、よくわかる。なぜなら、亡くなった人は、
自分の好きな人の所へ行くことができるからである。また、先立って亡くなり、自分のことを愛し、大切にしてくれた人たちも待ってくれている。しかも、この段階では時間が存在しないため、20歳の時に子供を亡くした人が99歳で亡くなっても、亡くしたときと同じ年のままの子供の姿に会うことができるのである。」
 さらに、末期の病を患っている子供たちに「誰に一番会いたいか」「誰に一緒にいて欲しいか」と尋ねてみたところ、99%の子供が両親を選んだにもかかわらず、その後に生死の境をさまよって臨死体験をした子供うち、実際に親のビジョンを見たのは、親がすでに亡くなっている子供のみであったという。もしも、否定論者が言うように、臨死体験が単に本人の願望の投影である(子供たちには臨死体験の知識はないため実際には願望も生じないだろうが)とすれば、99%の子供は死に際して親のビジョンを見るはずである。この結果を受けて、キューブラー=ロス博士は、自信を持って断言する。
 「何年も研究してきたが、(親が先立っている子供を除いて、臨死体験の時に)誰一人として親を見た子供はいない。
なぜなら、両親はまだこの世に存在するからだ。誰に会えるかを決める要因と言うには、例え1分でも先に亡くなっている人で、死にゆく人が心から愛していた相手だと言うことなのである。」
 したがって、「臨死体験は幻想であり、死にゆく者の願望が表出したものにすぎない」という否定論者の見解は、成立しないことになる。
キューブラー=ロス博士は、俗に言う「守護霊」の役割を担う魂たちの存在についても、「人間は誰でも、その誕生から死に至るまで、霊的な存在に導かれていることが証明されている。信じようが信じまいが、誰にでも霊的なガイドがついているのだ。あなたがユダヤ人であるか、カトリック教徒であるか、他の宗派の信者であるかは重要ではない」と強調するが、この指摘は、ホイットン博士やワイス博士など他の研究者の報告内容とも一致している。

2. 人生の回顧と反省
 ホイットン博士の被験者たちの証言は、みな「裁判官」(指導役の魂)の存在を裏づけており、ほぼ全員が、3人や5人、まれに7人の、年老いた賢人(のイメージでビジョン化された魂)の集団の前に出て、一種の裁きを受けたという。彼らは、姿が不明瞭な場合もあれば、神話に出てくる神や、宗教上のマスターの姿として見える場合もある。これらの指導役の魂たちは、目の前の人物に関して知るべきことは何でも直感的に知り、その人物が終えてきたばかりの人生を評価するのを助けてくれる。被験者たちは、「彼らと一緒にいるとわが身の未熟さを痛感する」と証言するが、場合によっては、次の転生について、どうすべきかを教えてくれることもあるという。
 中間生に、各人にとっての「地獄」があるとすれば、それは、反省のために自分自身の人生を省みる瞬間のことである。
指導役の魂たちは、今終えてきたばかりの人生を回顧するよう促し目前でパノラマのように、その一生のビジョンを見せてくれる。そのビジョンを見ながら、終えてきた人生における後悔や罪悪感、自責の念が心の底から吐露され、被験者たちは、見るも無惨なほど苦悶し、悲痛の涙にくれる。他人に与えた苦しみは、あたかも自分がその苦しみを受けるかのように身に沁みる。ある被験者は、「まるで、人生を描いた映画の内部に入り込んでしまったかのようです。人生の一瞬一瞬が、実感を伴って再演されるのです。何もかも、あっという間に」と表現する。
 この人生を再現するビデオテープのようなビジョンから、魂は細大漏らさず意味をくみ取り、厳しく自己分析を進めていく。魂は初めて、自分が幸福を棒に振った時のこと、他人を傷つけてしまった時のこと、命にかかわる危険の間際にあった時のことなどを理解する。我々の誰もが、終えてきた人生における言動の説明を求められるが、その際に問題とされるのは、我々一人一人の誠実さ、道徳性のみであるという。恋人ののどを切った被験者は自分ものどを切られたように感じ、不注意で子供を死なせてしった被験者は、鎖につながれた自分のビジョンを見せられる。生前に裏切り行為をしたある女性は、「あまりの恥ずかしさに、その3人を見上げることもできませんでした」と回想している。
 しかし、指導役の魂たちは、いわゆる「エンマ大王」のように恐ろしい存在ではなく、各人が充分に反省したのを見ると、回復と癒しのエネルギーを与えてくれる。ある被験者は、その時の感情を、「裁判官たちの前へ出るのは恐ろしかったですが、すぐに心配ないと悟りました。みな優しく慈悲にあふれていて、怖れは消えました」と回想する。
指導役の魂たちは、己の罪を悔いる魂に自責の念をつのらせないよう、人生のプラス面を指摘して勇気づけてくれる。「さあ、元気を出して。あなたの人生は、あなたが考えているほど悪くはなかったのだ」と。指導役の魂たちは、厳めしく振る舞ったりせず、むしろ生徒たちを励まして過去の過ちから学びとらせてやろうとする慈しみ深い教師のようだという。そして、これまでに何度にも渡って転生した人生の中で重要なエピソードを示しては助言を与え、たとえそれがいかに芳しくないものだったとしても、「いかなる体験も、あなたを成長させてくれるものだ」と元気づけてくれるのである。
 このような、退行催眠による証言に一致するものとして、レイモンド・ムーディ博士が典型的な臨死体験として認定する事例を示してみよう。雷に打たれて心臓が停止したある男性は、指導役の魂のことを「光の存在」と表現しながら、次のように証言する。
 「光の存在が私を包み込むと、私の前人生の回想が始まった。ダムが崩壊し、脳裏にしまい込まれていた記憶が全部あふれ出したような感じだった。この人生の回顧は、楽しいものとは言えなかった。始めから終わりまで、私は胸の悪くなるような現実を突きつけられることになった。私は、実に嫌な人間だったのだ。利己的で、意地の悪い男だった。」
 この男性は、心臓が停止した状態のまま、子供時代から中年を迎えるまでの人生を事細かに回想した。他人や両親に対して自分が行った言動を再体験し、同時に自分が傷つけた相手の気持ちになって、自分の行動を客観的に評価していったという。例えば、ベトナム戦争で敵兵を射殺した場面を次々と思いだした彼は、その時の心境をこう語る。
 「私は引き金を引き、ライフルの反動を身体に受けた。一瞬、間をおいてから、彼の頭が吹き飛び、その身体ががっくりと倒れ込んだ。当時、私が実際に目にした光景は、そういうものだった。ところが回想の時は、私はその北ベトナム軍の大佐の視点から、この事件を体験していた。彼が受けたはずの身体の痛みは感じなかったが、自分の頭が吹き飛ばされたときの彼の混乱と、身体を離れ、もう二度と家には帰れないのだと気づいたときの悲しみを感じとった。
そして、感情の連鎖反応が起こり、一家の働き手を失ったと知った時の彼の家族の悲痛までもが伝わってきたのだ。」
 しかも、自分が直接手を下したわけではなくても、自分が輸送した武器によって多くのベトナム人が殺される光景や、父親が殺されたと知って泣き叫ぶ子供たちの姿を、「光の存在」から見せられたという。そして、この男性は、猛烈な反省を促される。
 「そこで人生の回想は終わった。人生を回想し終えると、今度は、今見たことを振り返り、反省し、結論を出す時になった。私は、すっかり恥じ入っていた。自分が送ってきた人生が、実に利己的なもので、他人に救いの手を差し伸べることなどまずなかったという事実を思い知らされたのだ。そう、人生の中心は、自分だけだった。自分独りのための人生だった。まわりの人間のことなど、眼中になかったのだ。光の存在を見つめた私は、悲痛と恥を深く感じていた。非難は免れないと思った。私の魂を打ち震わせるような、すさまじい非難を受けるだろう、と。人生を振り返って目にした自分は、全く価値のない人間だった。非難以外、考えられない。」
 しかし、ホイットン博士の被験者たちも言うように、指導役の魂たちは、むやみに非難したりはせず、自分自身で十分反省するよう見守っていてくれる。
 「光の存在をじっと見つめていると、私に触れているように感じた。その接触から、私は愛と喜びとを感じとった。
それは、おじいさんが孫に与えるような、無条件の思いやりに等しいものだった。そしてもう一度、私は反省の時間を与えられた。私は人にどのくらいの愛情を与えてきたか?そして人からどれくらいの愛情を受け取ってきたか?その時目にしたばかりの回想から考えると、善が1に対して、悪が20という割合だった。」
 そして、十分に反省したことを見届けると、指導役の魂たちは、むしろ温かいメッセージをかけ、激励してくれるのである。
 「反省したことで確かに痛みや苦悶を感じたが、そのおかげで、人生を正しく歩んでいくための知識が身についた。
光の存在からのメッセージが、頭の中に響いた。『人類は力ある霊的な存在で、地上に善を創造するために生まれてきたのです。善は、不遜な行為からは成し遂げられません。人々の間で交わされる優しさ一つ一つから成し遂げられるのです。小さなことが積み重ねられた結果なのです。なぜなら、それは無意識の行為であり、あなたの真の姿を映し出してくれるからです。』私は元気づけられた。単純明快な秘訣がわかったのだ。つまり、人生の終わりに得る愛情の深さと善意は、人生の中で人に与えてきた愛情と善意に匹敵するということ。『それがわかれば、これから自分の人生を、より良いものにできるでしょう』と、私は光の存在に言った。しかしその時、もう戻れないのだ、と言うことに気づいた。雷に打たれて、死んでしまったんだ。」
 その後、この男性は、「光の存在」から、再びこの世に戻ってやり残したことを果たすように指示され、奇跡的に息を吹き返す。
 「私は、いつの間にか廊下の上に浮かんでいた。下には人を乗せた車輪付きの担架が置かれていた。シーツで覆われたその人は、身動きすることもなく、じっと横たわっていた。死んでいたのだ。白い服を着た2人の係員がエレベーターから現れ、その遺体の方へやってきた。2人は煙草をふかしながら、私が漂っていた天井に向けて、煙の固まりを吐き出していた。あの遺体を安置所まで運んでいくんだな、と私は思った。彼らが遺体のところへ到着する前に、私の同僚のトミーが戸口から現れ、担架のわきにたたずんだ。その時に私は、シーツの下の人間は自分なのだと気づいた。私は死んでいた。今、まさに遺体安置所へ運ばれようとしているのは、私なのだ。というよりも、私のなきがらなのだ。」
 彼は、家族と医者が到着するのを上空から観察し、家族が自分の生き返りを願う祈りの気持ちに包まれるように、全身に火傷を負った自分の肉体へと、再び下降していった。
 「肉体に戻ったとたん、そこに宿っていた苦痛が押し寄せてきた。再び、火あぶりにされたようだった。表も裏も焼きつくされた身体は、激痛に襲われていた。身体を動かすことができなかった。係員が遺体安置所に運ぼうとしているというのに、身体が動かせないというのは最悪の事態だ。残る手段はただひとつしかなかった。私は、シーツに息を吹きかけた。『おい、生きてるぞ、やつはまだ生きてるぞ!』とトミーが叫んだ。」
 この臨死体験者が語る「光の存在」(指導役の魂たち)については、メルヴィン・モース博士の調査においても、多くの患者が証言している。例えば、23歳で臨死体験をした女性は、このように回想する。
 「光の存在は私を包み込み、私の人生を見せてくれました。これまでにしてきたことを全て見て、反省するわけです。
中には見たくないこともありますが、終わったことだと思えば、かえってほっとします。特に覚えているのは、子供の頃に、妹のイースター・バスケットを横取りしてしまったことです。その中のおもちゃが欲しかったものですから。
でも、あの回想の時には、妹の失望や悔しさを自分のことのように感じました。私が傷つけていたのは自分自身であり、喜ばせてあげていたのも、又自分自身だったのです。」
 臨死体験中に、人生のパノラマ・ビジョンを見ることは通常であるが、ある女性は「人間関係の波及効果」とも言うべき仕組みに関する貴重な教訓を見せられたという。
 「そこには、人を傷つけてばかりいた私の姿がありました。そして、私が傷つけた人たちが、今度は別の人を同じように傷つけている姿がありました。この被害者の連鎖は、ドミノ倒しのように続いていって、また振り出しに戻ってきます。最後のドミノは、加害者である私だったのです。ドミノの波は、向こうへ行ったかと思うと、また戻ってきます。思わぬところで、思わぬ人を私は苦しめていました。心の痛みが、耐えられないほど大きくなっていきました。」
 このように、退行催眠によって「中間生」を思い出した被験者たちと、臨死体験によって「あの世」をかいま見た患者たちとの証言に、極めて共通性があることは注目に値しよう。被験者たちが思い出した「中間生」と、患者たちが見た「死後の世界」とが同じものを指していることを示唆すると同時に、双方の証言内容が、互いの信憑性を高め合うことになるためである。

3. 人生の自己計画
(1)果てしない成長の追求
 ホイットン博士の研究で最も興味深い点は、肉体に宿っていない状態(中間生にいる状態)の間に、魂が自分自身で、次の人生を計画するという事実が判明したことである。被験者たちは、指導役の魂たちの前で終えてきた人生を回顧し反省した後、その助言を参考にしながら、自分で次回の転生の予定を立てたことを思い出す。この時、幾多の生涯を通じて絆を作り上げてきた他の魂(後述するソウル・メイト)と相談しながら、次の人生を計画することが多いという。この場合、再会のチャンスを逃さないように、互いの誕生の時と場所を綿密に打ち合わせておかなければならない。被験者たちの証言によると、このような「グループ転生」は頻繁に繰り返されており、互いに仲がよい場合も悪い場合も、過去生に登場した人物と再び新たにかかわり合うことになる。ある被験者は、こう語る。
 「前世で充分な扱いをしてあげなかった人がいるので、この世に戻って借りを返さなければなりません。今度彼らが私を傷つける番になっても、許してあげるつもりです。」
 また、前世で自分が殺した女性のもとへ生まれ変わるのが、成長のために最も役立つという指導を受けた被験者は、催眠状態のまま、「嫌だ、あの女なんか、もう二度とごめんだ」とうめいたという。一方で、自分が解決しなければならない課題にふさわしい状況に身を置くために、わざわざ欠陥のある身体や逆境を選択して生まれるよう助言された被験者が何人もいる。ある女性は、こう証言する。
 「指導役の魂たちが、私に、次の人生では父親のいない家庭で育てられる体験を味わうべきだと助言したのです。それに、この両親を選んだことによって、結婚相手となるべき男性と出会うために、理想的な立地条件におかれることも知っていました。」
 ただし、生まれる前に立てた計画は、必ずしもその通りに実行されるとは限らない。中間生で立てる計画はいわば下絵のようなものであり、実際にこの世に生まれてくると、下絵の通りに絵を描くことは難しい。未発達の魂ほど詳細な設計図を必要とするが、発達した魂になると、大まかなアウトラインだけを作って生まれ、わざと困難な状況に身を置いて、より創造的な人生を送ることもある。ある男性の被験者は、、かつての人生のひとつで、性別と基本的性格だけを決めることにし、「多情な女になる」という設定だけを決めて生まれた。彼は人生設計に作業について、「一定の時間が経つと作動する時計仕掛けの機械を、しかるべく調整してスイッチをセットしたわけです」と表現している。
 大きな困難を克服することに何度も失敗した人々は、その課題を果たすまで、何度でも同じ状況に身を置いて生まれるよう、指導役の魂たちから促されたという。あらかじめ、何回も先の人生までを視野に入れた、長期的な計画で自分の成長をはかる場合もある。指導役の魂たちの助言を拒むのも自由であるが、その勧めを無視することは、転生が無計画に行われることを意味するため、無用の艱難辛苦がいつ襲って来るかもしれない。被験者たちは、中間生できちんと計画を立てないまま生まれてきたことをホイットン博士に告げるとき、必ず不安そうな表情をするという。
一方、きちんとした計画を立てて生まれてきた被験者は、催眠状態でその計画を語るにあたって、たとえそれが困難に満ちた人生計画であっても、淡々としているという、
 ここで、被験者たちが催眠状態で語った、いくつもの人生に渡る因果応報のパターンの典型的な事例を見てみよう。
被験者たちの多くが、生まれ変わりや因果応報の原則を否定するキリスト教徒であるということが、証言に信憑性を与えている。

○ベン・ガロンジは、父を憎んでおり、18歳の時に父を殺す一歩手前まで言った。父の喉を切ろうとして台所から肉切り包丁を持ち出した瞬間、心の中にささやく声が聞こえ、彼は決心をひるがえして包丁を引き出しにしまった。殺人は決してするまいと心に誓ってから、ベンの人生は大きく好転し、経営者として成功した。その後、被験者として退行催眠を受けてベンが知ったのは、その一件が、自分が「いくら腹が立っても暴力に訴えずに耐えること」を学ぶために計画したテストだったということであった。ベンは中間生の記憶をたどりながら、「今回正しい行いをすれば、事は上手く運ぶだろう。さもなければ、もっと厳しい学習環境を必要とすることになるだろう」と、指導者の魂たちが語る声を聞いたのである。
○1971年に夫を飛行機事故でなくした3児の母親は、催眠下で、3千年前に中央アメリカのマヤ文明の信心深い指導
者だった人生を思い出した。その人生で彼女は、自分に反対する者に死を宣告し、いけにえにするのを楽しみにして
いた。今回の人生で彼女は、かつて自分が他人に与えた、「死別の悲しみ」という試練を、今度は自分自身が味わうこ
とにより、同情心をつちかう計画を立てていたのである。

○ユダヤ人の外科医であるエズラ博士は、催眠下で、ローマの軍人であったときの人生をまざまざと思い出した。その人生で博士は、ユダヤ人の身体を半分砂にうずめてその上を馬で突進し、ユダヤ人を痛めつけていた。今回の人生でエズラ博士は、自らが今度はユダヤ人として生まれ、迫害の苦しさを体験することを自らに課した。博士は、ユダヤ系だという理由で、大学病院から追い出されてしまったのである。

○ある我がままな性格の主婦は、催眠下で過去生をさかのぼっていった結果、美貌を鼻にかけるジョージア州の南部美人、傲慢なフランス人の牧師、家族を無視して自分のことしか考えなかったスコットランドの男性などであった人生を思い出した。彼女がこのような人生ばかりを繰り返しても得ることはないと悟ったとたん、破れかかっていた夫との仲が、劇的に好転したのである。

○ベッキー・ロバーツは、アルコール中毒にかかった冷酷な夫のもとで、3人に子供を苦労して育て上げた。ただし、クリーヴ・イーデンサーという男性が、ベッキーの家庭問題を何から何まで援助してくれたおかげで、苦労もずいぶんと助けられた。ある時に被験者となったベッキーが催眠下で見たものは、3世紀のアレクサンドリアの神殿で巫女をしていた時の自分の人生であった。その人生で、現在のクリーヴは、修行中の神官であった。強く引かれ合った2人は恋に落ちたが、ある日上司に情事が発覚し、2人は捕らえられた。神官のクリーヴは巫女のベッキーに誘惑されたためだと言い張り、この言い訳を信じた上司たちは彼を釈放するが、ベッキーは死罪を申し渡された。この大きな罪から逃れることはできず、クリーヴは今回の人生で、困っているベッキーに対して、大昔の裏切りの埋め合わせをしていたのであった。
 最後の例が示すように、ホイットン博士の被験者の多くは、妻・夫・恋人との関わり合いを一連の過去生にまでたどり、その関係が因果応報の法則のうえでいかなるものであったのかを知ったのである。ただし、我々がつらい人生を送らなければならないとしても、必ずしも過去生で悪いことをしたために償っているとは限らない。わざと厳しい条件に身を置き、一定の試練を受けることにより、大きく成長する機会を設けている場合もあるからである。しかも、生まれつき非凡な才能を持っているような場合、それは過去の人生で培ってきたものだということも、被験者たちの一連の退行催眠から明らかになった。
 慎重に選ぶか、無計画に選ぶかという差はあっても、この世の環境を選ぶのは、我々自身である。被験者たちは、その人がエイズの犠牲者であろうと、堕胎児であろうと、映画スターや、足を失った新聞売りや、大統領であろうと、どの人の置かれた状況も、偶然の成りゆきでも不条理でもないということを知る。中間生の意識状態で客観的に見れば、どの人の体験も、宇宙という教室の授業のひとこまにすぎない。肉体を持って生まれてくる「人生」という授業の中で学べば学ぶほど、我々の成長も早くなるのである。
 一方、ブライアン・L・ワイス博士は、退行催眠中に、被験者の口を借りて、複数の指導役の魂たちが直接語りかけてくるという劇的な体験をしている。被験者の口から、全く別人のものとしか思えない声と口調で、深遠なメッセージが流れ出てくるのである。ある時、ワイス博士が、「人生をより良く生きるために、我々はどうすれば良いのですか」と尋ねてみたところ、指導役の魂の一人が、次のように答えてくれたという。
 「人の道は、基本的に誰にとっても同じだ。人はこの世に生きている間に、その道を学ばなければならない。ある者は速く、ある者はゆっくりと学ぶ。慈悲、希望、信仰、愛など、人はこれらの全てを学ばなければならない。ひとつの希望、ひとつの信仰、ひとつの愛というように、切り離されるものではなく、全てはつながっている。また、それを実行する方法もいろいろある。しかし、人はまだ、どれもほんの少ししか知らないのだ。」
 この言葉は、もちろん被験者自身が思ってもいない内容であり、普段は口にすることのない口調や語句で語られ、被験者はその最中、自分の口が勝手に動いているのを自覚している。しかも、ワイス博士の実験によると、複数の被験者から同様な現象を確認することができたため、この現象が特定の被験者の錯覚や創作でないことが証明された。さらに別の時に、ワイス博士は、被験者の口を借りて現れた指導役の魂から、このようなメッセージを与えられたという。
 「大切なことは、忍耐とタイミングだ。全てのことには時がある。人生をあせってはならない。人生は、多くの人々が期待するように、うまく予定通りにいくことはない。したがって、人はその時々にやってくるものを受け入れ、それ以上を望まない方がよい。生命に終わりはない。人は決して死なないし、本当は、新たに生まれるということもない。ただ、いくつもの異なる場面を通り過ぎて行くだけなのだ。」
 しかし、このような解答を前にしても、我々は、「人生が修行の場であるならば、なぜ幼くして死んでしまう子供がいるのだろう」と疑問を持つ。ところが、臨死体験者の中には、中間生をかいま見ながら、その答えを教わったものも現れている。
 「ほんのしばらくの間しか、この世にいることができない魂もたくさんいます。生まれてから数時間とか数日間しか生きられない人たちです。そういう魂も、みんなと同じように、大いに喜んで生まれてきます。自分たちにも、為すべき目的のあることがわかっているためです。その人たちには、それ以上この世で生きながらえて成長する必要がありません。自分たちの死が、両親の成長を早める材料になっているからです。この世の悲しみは確かにつらいですが、それはすぐに過ぎ去るのです。」
 このように、若くしてこの世を去る人々は、既にこの世での目的を果たしてしまったためか、あるいは若くしてこの世を去ること自体が、その人や家族にとって特定の大きな意味を持っているからであるという。しかも、決して永遠の別れではなく、いつかこの世を去ったときに、必ず再会することができる。この仕組みを、科学的知識として知らせることによって、死別の悲しみにくれる人々を、どれだけ救うことができるだろうか。

生きがいの夜明け
17
(2)ソウル・メイトとの共同計画
 グループ転生をする魂の集団のうちでも、特に強い結びつきにある魂同士が「ソウル・メイト」である。
ホイットン博士の被験者の多くは、妻・夫・恋人との関わり合いを一連の過去生までたどり、それが因果応報の関係にあることを知った。前世で良好な人間関係を体験した人々は、次の人生でも再び協力関係を計画する。ただし、今回の人生でその関係がまた確立されるかどうかは、中間生において魂の状態の時、一緒に次の人生を計画したかどうかによるという。
 例えば、アンドリューという被験者は、19世紀にイギリスで過ごした過去生で恋人であったモーリーンに、今回の
人生でも再び出会ったのだが、その時既に彼は結婚していた。しかし、過去生で深い恋人関係にあったため、今回の人生でも強烈に引きつけ合い、不倫の関係に陥ってしまった。その後、ホイットン博士の被験者となって催眠状態でアンドリューが思い出したのは、今回生まれる前にモーリーンからこの世で再会する計画を持ちかけられたにもかかわらず、再び肉体を持って生まれることに尻込みして、きちんと計画しないままでいたということであった。そのため、過去生からの衝動が再びこの世で2人を結びつけた時、2人は夫婦の間柄としてではなく、人目を避ける愛人関係に甘んじざるを得なかったのである。このように、今回の人生における恋愛、結婚、不倫などは、過去の人生で何度も深い関係にあった魂たちとの再会であることが多いという。
 中には、瀕死の状態で中間生を覗いたとき、自分の両親を結婚させようとして苦労している魂たちを見た臨死体験者もいる。ある女性は、このように証言する。
 「その魂は、この世の不完全な男女を添わせようと懸命になっています。将来、その2人の人間が、自分の両親になる予定だったからです。キューピット役のその魂は、苦労しています。若いカップルは反対方向の人生を歩もうとしているので、知らず知らず冷たい関係になっていました。その魂は2人を導き、語りかけて、何とか一緒になるよう説得に努めています。苦境に立ったその魂を、仲間の魂たちが心配して、みんなで障害を取り除こうとしています。」
 イアン・スティーブンソン博士も、生まれ変わろうとする魂が、愛情や友情によって過去生で結びつきがあったために、特定の家族に引きつけられることを指摘している。生まれ変わろうとする魂は、ほとんどの場合、両親となるべき夫婦が提供する胎児(この世でまとう肉体)が、どのような胎児であっても引き受けざるを得ない。そこで、自分が望んでいる性別の精子を卵子の方へと誘導したり、逆の性別の受精卵を排出させたり、希望する性別の受精卵が登場するまで待つことによって、今回の人生で計画している性別として生まれてくるのではないかという。
スティーブンソン博士は、子供を亡くした両親が、「その子供が自分たちのもとへ戻ってきて欲しい」と願う事例をいくつも調査したうえで、そのような場合、生まれ変わろうとする魂は性別に対する執着が強く、希望する性別の肉体が手に入るまで待ち続けているらしいと分析している。
 一方、ブライアン・L・ワイス博士の被験者たちによると、ソウル・メイトを持つことの意味は、もうひとつの魂(多くは何度も妻や夫として生まれ変わるようであるが、性別は交代する)と数多くの人生を共に生き、喜びや悲しみ、成功や失敗、愛や許し、怒りや優しさ、とりわけ、終わりのない成長を共に分かち合うことであるという。したがって、ソウル・メイトは、今回の人生で出会った瞬間から、もうずっと以前から互いに知っていたかのように、深いつながりを感じる相手であることが多い。
 また、ソウル・メイトは一人につき一人だけしかいないわけでもなく、むしろ我々は、多くのソウル・メイトから成る魂のグループを持っている。妻や夫というロマンスの相手ばかりでなく、親友、両親、子供といった関係として生まれ変わってくることも多い。我々は、自分のソウル・メイトたちと共に、何度も何度も生まれ変わりながら、互いに切磋琢磨したり助け合ったりして成長してゆくのだという。しかも、ワイス博士は、養子縁組をした親子についても、数多くの退行催眠の結果から興味深い事実を発見している。
 「過去生への退行は、養子縁組をした家族に朗報をもたらすことがある。彼らは互いに血はつながっていなくても、魂のつながりは血よりも濃いということを示してくれる。私は、養子と養父母の間だの縁の方が、実の親子の間の縁よりも深いという事実を示す退行催眠を、何度も体験した。養子のいる家族全員に退行催眠を行ってみると、彼らは過去生でもお互いの存在を認め合うことが多い。親子関係になると運命づけられているのに、実の子として生まれてくる道が閉ざされている場合には、そのための他の道を見つけるようである。養子・養父母の関係は、決して偶然ではない。」
 さらに、ワイス博士の研究では、ある段階まで成長した魂が、もう自分の成長のために生まれ変わる必要がなくなることもわかっている。これらの発達した魂は、今度は他人を助けるために自ら志願して生まれ変わるか、あるいは魂のままでとどまって、あの世から様々な方法でこの世の人々を助けるか、どちらかを選ぶことができるのだという。
 一方、ソウル・メイトの重要性については、薬物投与で被験者を退行させる方法を編み出した、スタニスラフ・グロフ博士も指摘している。長期間の難しい敵対関係に巻き込まれて困っていた人物に退行療法を施した経験を、グロフ博士は次のように述べる。
 「過去生の体験をしているとき、彼はその敵対者が、遠い昔、一緒に生きていた時代に、自分を殺した人物だということを知った。過去の中に入り込んで、その罪を許した瞬間、彼はその敵対者に対する現在の人生における気持ちが変わるのを体験した。昔の敵意や怖れが一瞬にして消え、今までとは違う角度からその人物を見るようになったのである。この変化が生じているとき、そのかつての敵も、同時に、しかし別個に、地球の反対側で似たような個人的体験をして、同じ方向に変容していた。ほぼ同じ時期に、2人の人間が2人とも、基本的な見方を変える体験をして、それまで敵意に満ちていた両者の関係が癒されたのである。例は、私の治療では珍しいことではない。因果関係で結びついたパートナーが劇的な変化を体験し、過去のくびきから解放され、長い長い年月に渡って存在した古い傷を癒すのを、私は何度も見てきた。こうした態度の変化は、当人たちが何千マイルも隔たったところにいて、彼らの間に直接的なコミュニケーションが何もない状態であっても、互いに数分も違わない間に起こったのである。」
 このように「生まれ変わり」の諸研究からは、ソウル・メイト同士の切磋琢磨や、許し合うことを学ぶ必要性が明らかにされている。これらの深遠な仕組みを目にするとき、私は、精神分析学の世界的権威であるエーリッヒ・フロムが、著書『愛するということ』(The Art of Loving)において結論づけた、次の言葉を思い出さずに入られない。
 「愛とは本質的に、意志に基づいた行為であるべきだ。自分の全人生を相手の人生に賭けようという、決断の行為であるべきだ。実は、ひとたび結婚したら絶対に別れてはならないと言う考え方の背景にあるのは、この理論である。誰かを愛するというのは、単なる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。もしも、愛が単なる感情にすぎないとすれば、『あなたを永遠に愛します』という約束には、何の根拠もないことになる。感情は生まれ、また消えてゆくからだ。」
 「しばしば見受けられるのが、『愛があれば絶対に対立など生じない』という幻想である。2人の人間の間に生じる真の対立、すなわち内的現実の奥底で体験されるような対立は、決して破壊的なものではない。そのような対立は必
ず解決され、カタルシスをもたらし、それによって2人は、より豊かな知識と能力を得ることができる。そのような
経験に基づく愛は、絶え間ない挑戦である。それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業なのである。」
 ソウル・メイトたち、なかでも妻や夫として何度も転生を繰り返している相手は、互いに切磋琢磨できる最高の相手だからこそ、時には両者の間に、解決すべき大きな課題を課して生まれてくることもある。その時、「対立するようでは夫婦としてやっていけない」と考えるのではなく、「課題があるからこそ夫婦である」と考え、フロムが言うように、「この人を絶対に愛するという強靭な意志」に支えられた「共同作業」としての課題解決を心がければ、今回この世に生まれてきた大きな目的を果たすことができるだろう。精神分析学に基づいたフロムの主張は、「生まれ変わり」の仕組みに関する研究結果を知ることによって、更にその説得力を増すのである。

(3) 「この世」への再訪
 ホイットン博士の被験者たちによると、裁判官役の魂の助言を受けながら、次の人生の計画を立ててしまうと、いつでも再び肉体へと下降することができる。肉体を持って生まれ変わるということは、まさに「修行への旅立ち」であるため、その試練を待ち望む魂もあるが、ほとんどの魂は、再び物質界の拘束を受けることに気が進まないと言う。
 ある被験者は、古代ギリシア時代の人生で少年たちを虐待したため、指導役の魂から「次の人生では自分が同性愛者として虐待を受ける経験を持ちなさい」と助言されたものの、「男の慰み者になるだって!それだけは勘弁してくれ」と、催眠状態のまま悲鳴を上げた。その人生の回想が終わった後、彼は「指導役の魂たちの助言で嫌々ながら選んだのですが、選んだからには最後までやり遂げなければなりません。あの身体に入っていくしかありませんでした。」と述べている。
 肉体に宿らないでいる期間、つまり中間生にいる期間が、この世の尺度でどのくらいの長さになるのかは、人により、またそれぞれの生涯によって、かなりの開きがある。ホイットン博士の被験者たちの場合、死んでから次の転生までの間は、最短で10カ月、最長では800年以上にも及んでいるが、平均すると40年程度だという。ただし、この間隔は、過去数百年の間に確実に縮まってきており、短期間の休養で次々に生まれ変わらなければならなくなっている
事態は、世界的な人口増加の推移とも一致している。例えば、被験者のうち数名は第二次世界大戦で死んだ後、すぐに転生してベビーブーム世代に加わったことを催眠状態で証言している。
 この世に再び生まれてくるにあたり、魂はみな、中間生にいる間の記憶や次の人生計画を、全て消去した状態で生まれてくる。学生にとって、試験の前に問題や解答を知っていては効果がないように、人生という名の問題集においても、これらの情報は知らないでおく必要があるためである。自分が今回の人生で将来に出会うように計画した事件をかいま見てしまった被験者たちの多くが、催眠状態のまま、ホイットン博士に、「催眠を解く際にその記憶を意識から消して欲しい」と依頼するのも、そのためである。「どうか目が覚めたら、このことを思い出させないでください。
自分で台本を書き直したくなってしまうかもしれませんから。」と、被験者たちは哀願する。自分の未来を語っている最中に、自分で催眠状態から跳ね起きて、それまでの話を一切思い出せなくなった被験者もいる。
 一方で、自分の立てた人生計画を催眠状態で知り、ホイットン博士に予言した被験者たちも少なくない。その予言が近い時期のもので、その実現を確認できる種類のものである場合には、「常に正しいことが証明された」という。
 再び転生しようとする魂が、実際に肉体の中に入ってゆくのは、誕生の数カ月前から、子宮から出た直後までの間のいつの時点かであるらしい。今後、魂がいつ肉体に宿り、いつ去ってゆくのか、つまり人間がいつ組織細胞の塊から人間になり、いつ再び組織細胞の塊へと戻るのかが確認されるようになれば、堕胎や脳死の認定問題にも大きな影響を与えることであろう。例えば、被験者の一人はこう語る。
 「私は分娩室にいて、母とその周囲にいる医者たちを見守っていました。進行中の全てのもののまわりを白い光が取り囲んでおり、私はその光と一体でした。やがて『生まれてきますよ』という医者の声が聞こえ、私は新しい身体と合体しなければならないということがわかりました。生まれてくることには全く気が進みませんでした。光の一部でいることが、とても素敵だったからです。」
 いずれにしても、退行催眠によって、被験者たちから死に対する恐怖が見事に消え去ってゆくことは、紛れもない
事実である。ある被験者は、「死ぬことが、とても素晴らしいことだとわかりましたから、これで私は死を楽しみに待つことができます」と語る。
 そして、退行催眠によって中間生の記憶をよみがえらせた被験者たちの証言は、根本的な一点において、皆同じく手厳しいものであったという。それは、「自分がどのような人間で、どのような環境にいるかということは、全て自分の責任である。自分自身が、それを選んだ張本人なのだ」ということである。この点について、ブライアン・L・ワイス博士も、退行催眠中の被験者の口を借りた指導役の魂から、ホイットン博士が到達したものと同じ内容のメッセージを受け取っている。
 「お前たちは、強欲を克服することを学ばなければならない。もしもそれができなければ、それは次の人生に持ち越される。そしてその重荷は、ますます大きくなってゆく。一回一回の人生で借りを返しておかなければ、後の人生は、ますます困難なものとなるだろう。どのような人生を送るかは、お前が自分で選択しているのだ。だから、お前は自分の人生に、100パーセントの責任がある。自分で選択しているからだ。」
 自分の過去生に基づいて次の人生が選ばれる仕組みをかいま見てしまうと、退行催眠の被験者たちは、改めて自分自身に重い責任があることを認識せざるを得ない。しかし、畏敬すべき進歩の過程を理解した被験者たちは、その重責に恐怖するよりも、むしろ深遠な宇宙の法則に対して、深い感謝の情を抱くのである。

第4節 「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する研究の
正当性
 以上のような「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する研究は、科学的かつ学術的観点からどのように評価することができ、また研究テーマとして、どれほど魅力あるものなのだろうか。本説では、これら2つの観点から検討を加えてみたい。

1. 死後生仮説の科学的説得力
 「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究は、科学的かつ学術的観点から、どのように評価することができるのだろうか。超自然現象を批判的に究明する「ジャパン・スケプティクス」の副会長である立命館大学の安斎育郎教授は、次のように語る。
 「死の淵に立った人が、『死後の世界』を信じて死のうが、信じないで死のうが、死の尊厳に変わりはありません。死後の世界を信じる、信じないは、個人の価値観の問題であって、科学が介入する余地はないでしょう。しかし、『死後の世界論』が『科学的体裁』で展開されるような場合には、科学の立場を明確にする必要が生じます。」
 「もしさんざん調べた結果、やはり現代の科学とは矛盾する現象だということがわかったら、素晴らしいことです。
その時こそ、科学が飛躍的に進歩するチャンスです。そんな時には遠慮なくいったん現代科学の体系を捨て、新たに見つかった事実もうまく説明できるように知識の体系をもう一度組み直せばいいでしょう。科学はこれまでもそのようにして進歩してきたのですから、いまさら変わった考え方をとる必要はないでしょう。」
 「超心理学の最先端の論文を批判するには、心理学の先端的知識に裏打ちされた専門家集団による検討が必要であり、私のように、本来、放射線防護学や国際平和学を専門とする経験の浅い懐疑派が片手間に検討して済むような問題だとは思いません。」
 安斎教授は、現在信じられている物理学の法則に反する仮説に対して、頭から「否定のための否定」はせず、あくまでも「懐疑派」の立場を強調しているが、これは科学者として賞賛すべき姿勢である。同様に、国際的に知られた生理学者である浜松医科大学も高田秋和教授は、臨死体験を既存の法則によって説明しようと努力した末に、先入観にとらわれない科学的態度を勇気を持って貫き、科学と宗教の今後の関係を次のように推測している。
 「今までは、科学は、宗教の非科学的な面を解明し、追求する役割を担っていると考えられていたと思います。つまり、科学により、宗教は説得力を失ってきたといえるでしょう。臨死体験は、逆に、将来、宗教的真理に支持を与えるものとして注目を与えるように思えます。」
 そこで、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する分野の専門家たちが、この問題の研究成果をどのように評価しているのかについて着目してみよう。まず、アリゾナ大学のロバート・カステンバウム教授は、臨床心理学者の立場から、これらの仮説の証明方法について、「第一に念頭に置くべきことは、きちんとした記録がひとつあれば十分だということである。本当は百も千も必要ではない。」と強調する。
 例えば、50人の被験者に「空中に浮かんでください」と指示したところ、49人は失敗したが、1人だけは地上1メートルの所に浮かんだとする。この結果を見て、「50人中49人も失敗したのだから、人間が空中に浮かぶことができるとは言えない」とか、「1メートル浮いただけでは証拠として不十分だ。やはり人間は空中に浮かぶことはできないに違いない」などと結論づけようとするのが、現在の否定論者の論法だという。本来ならば逆に、「成功したのは50人中1人だし、わずか1メートル浮いたにすぎないが、確かに人間が空中に浮いている。少なくとも、人間は空中に浮くことができるのだ」と結論づけるのが科学的解釈であり、むしろ、「どうして空中に浮くことのできる人とできない人がいるのか」「浮くことのできる条件は何か」という命題にこそ、論点が移っていくべきだというのである。その上で、
カステンバウム教授は、次のように指摘する。
 「一部の反対派が、しっかりはしていても完全ではない証拠を認めたがらないのは、ただ『死後の生存を認める』のが嫌なのだということを物語っている。証拠を認めるのをためらうのと、反証するのとでは大違いである。
我々がこれまでに見てきた、死後の生存を裏づける証拠の大部分には、死後の生存を否定するものは何もない。ただ一部の人が、証拠に限界や欠陥があるかもしれないと思う限り、死後の生存を認めたがらないだけのことである。もしも、これと同じ考え方で科学一般のデータが扱われたとしたら、教科書は今よりもずっと薄くなることだろう。」
 同様に、エリザベス・キューブラー=ロス博士は、いくら科学的な証拠を示しても認めたがらない否定論者たちに対して、皮肉たっぷりにこう述べる。
 「私が何を申し上げたいのか、お分かりですか。ある事実に納得がいかないと、人はそれを否定する何千もの反論を持ち出してくるのです。再度言いますが、これはその人自身の問題であり、そのような人を無理矢理に説得しようとしてはなりません。いずれにしても、死ねばわかることなのです。」
 彼女が述べるように、「否定のための否定」に終始して心を開かない論者たちを説得するという益の少ない行為よりも、人生に絶望している人や死の恐怖に震える人に対してこれらの知識をきちんと伝えることの方が、はるかに優先すべき課題なのである。
 さらに、ブライアン・L・ワイス博士は、科学の進歩の歴史を例にあげながら、次のように指摘する。
 「歴史を振り返ってみても、人々は変化や新しい考え方に対して、いつも大きな抵抗を示してきた。そのような例は枚挙にいとまがない。ガリレオが木星の月を発見したとき、当時の天文学者たちはそれを受け入れようとしないばかりか、衛星を目で見て確かめようともしなかった。木星の月の存在は、自分たちが信じている仮説と矛盾していたからだ。現在もそれと同じことが起こっている。精神科医やセラピストたちは、肉体が死んでも魂は生き続けるということや、過去生の記憶などについて数多くの証拠を調査することはおろか、評価することさえも否定している。彼らはしっかりと目を閉じているのだ。」
 数多くの証拠を評価することさえも否定し、しっかりと目を閉じているの研究者は、精神科医やセラピストばかりでなく、物理学者にも多いと思われる。物理学という学問の性質上、「現在わかっている普遍的な法則に合致しない」という理由で見ぬふりをしているか、頭から否定しようとして読むために、いかなる証拠も「不十分」と決めつけるかのいずれかであろう。しかし、高エネルギー物理学の世界的権威でありNASAの主任研究員勤めた神奈川大学の桜井邦明教授は、著書『宇宙には意志がある』において、「人生は一度きりである」と物理学的に解釈しながらも、一方では次のように明言している。
 「そもそも、科学的法則や理論というのは、私たちが経験した現象に対する、一種の解釈にしかすぎない。現在の宇宙論にしたところで、これまでの観測結果を合理的に説明しようとして作り上げた解釈の一つであって、これが唯一無二の真実であるとは言い切れないのである。インフレーションではじまるビッグバン宇宙論が、今後、永久に変わることのない正しい説明なのだと断言できる研究者は、たぶん1人もいないだろう。」
 しかも、本稿で整理した「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究結果は、現在最も合理的だと考えられている物理学の普遍的法則や、生物学の進化論などを、真っ向から否定するものではない。むしろ、これらの分野の研究者が先入観抜きで客観的に検討すれば、現在の物理学や生物学、遺伝学の法則では理解しにくい現象が説明されたり、それらの法則に新たな視点や切り口を与えてくれることだろう。それは、理学系以外の学問分野においても同様であり、例えばジョージア大学哲学科教授のロバート・アルメダー博士は、近年の具体的事例を幅広く分析したうえで、次のように結論づけている。
 「この2,30年の間、生まれ変わり、霊姿、憑依、体脱体験、死者からの通信といったものに関する証言が、科学的な方法を用いて検討されるようになった。こうした研究の成果は、哲学者の立場から見て印象的なものであり、私見によれば、死後にも何らかの形で存在を続けるとする考え方を裏づける強力な証拠となっている。死後の生命という考え方は、最強の懐疑論の猛襲にも耐えられる、というのが私の結論である。死後には何も残らないと考えるよりは、何らかの形の生命が存在すると考える方が、理にかなっているのである。」
 わが国でも、心理学者である愛媛大学教養学部の中村雅彦助教授は、臨死体験を正面から取り上げた著書において、公正な立場から次のように強調している。
 「生まれ変わりを信じる、信じないは、個人の思想、信条の自由である。しかし、科学の世界では、生まれ変わりが本当にあるのか、ないのか、その真実性を問題にする。そのためには、たくさんのデータを集めてこなければならない。私は、何らかの結論が出るほどのデータが集まるまでは、その可能性を否定しないと言う姿勢を保ちたい。」
 しかも、中村助教授は、既存研究を客観的に分析したうえで、「生まれ変わりがあり得る」との判断を示し、勇気を持って次のように告白している。
 「最初は、トリックやでっちあげを暴いてやろうと思って文献購読を始めたのだが、読めば読むほど厳密な研究の姿勢に感心して、同時に人の心の時空を越えた広がりを実証するのは、こんなにも難しいものかと驚きもした。気がついてみたら、ミイラ取りがミイラになってしまっていたのである。」
 このような、当初は否定しようとして始めたにもかかわらず、結局は肯定せざるを得ない結果に終わってしまい、科学者として謙虚な姿勢を余儀なくされたという経緯を、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する多くの研究者が記していることは興味深い。彼らにとって、「死後の生命」や「生まれ変わり」を認めることは、決して研究者として得策ではなく、とりわけ研究の萌芽期には(日本では未だにこの期を脱していないが)、むしろ学会から白眼視される危険性が極めて高かったのである。彼らの研究成果を先入観抜きで検討するならば、「否定のための否定」しか頭にない非科学的姿勢の研究者を除いて、公正な懐疑論者を、「主観的には信じたくないが、客観的には認めざるを得ない」という複雑な心境へといざなうに充分な説得力を持っていることがわかる。
 しかし、本稿は、否定論者の説得を目的とするものではない。ここでは、各国の真面目な研究者たちが損得を抜きにして「認めざるを得ない」と告白する言葉の数々が、時に感動的ですらあるほど、勇気と使命感に満ちていることをのみ指摘しておきたい。

2. 死後生仮説の優位性
 「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究は、その科学的真偽の議論とは別な次元において、これらを否定する論者に対する絶対的な優位性を持っている。これについては、通常あまり注目されてはいないが、本稿のように「知識を広めること自体が発揮する効果」を強調する場合には、不可欠な論点だろう。
 私の専攻する経営学では、競合企業を打ち負かすために、いわゆる「接待優位の戦略」を立案することが望ましいとされる。絶対優位の戦略とは、事態がどのように進展しようとも、最後には自社が勝利を収めるようなシナリオを、シミュレーションによって描いたものであると理解すればよい。「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究は、少なくとも2つの観点において、否定論者に対する優位性を保持している。
(1) 「死後の生命は存在しない」ことを「科学的に実証する」ことは不可能である
 「死後の生命は存在する」という命題については、データを蓄積することや、管理された研究条件のもとで科学的に実証することが、方法論的に可能である。その反面、「死後の生命は存在しない」という命題の場合、当然ながら、そもそも存在しないもの自体を確認することは不可能である。そのため、否定論者は、肯定論者が「存在する」という証拠をひとつひとつ検証し、その全てについて「証拠として認められない」ことを公正な立場から確認する必要があり、全ての証拠が否定された段階で、ようやく「現在の所、死後の生命が存在するという証拠はないため、死後の生命は存在しないものと思われる」という科学的推論を導き出すしか方法がないのである。
 しかし、死後生存の証拠が全て否定されたとしても、あくまでも「現在のところは」という条件付きであり、将来、決定的な証拠が見つかる可能性は十分にある。したがって、「死後の生命」というテーマについては、論理的に見て、
「肯定できるだけの決定的証拠はないが否定する方法もない」か、「肯定できるだけの証拠が得られた」かという、2つの状態しかあり得ない。言い換えれば、肯定論者が「悪くても現状維持、おそらく明るい未来」という希望を持つことができるのに対して、否定論者には「ひたすら頑張っても現状維持、もしかすると敗北」という未来しかないのである

(2)死後にも意識があった場合、否定論者は自分の誤りを知ることになるが、死後は無に帰してしまう場合、肯定論者の意識はなくなるため自分の誤りを知ることはない
 「死後の生命」という命題の回答は、「死後にも意識があるか、ないか」の2通りしかない。したがって、次の理由から、死後にも何らかの形(例えば「魂」)として覚醒しており意識があると考え、そう主張しておく方が、論理的に見て絶対的に優位なのである。
 具体的に考えてみよう。肯定論者の場合、実際に自分が死んだ後に意識があれば「やはり思っていたとおりだ」と満足することになるし、万が一、無に帰してしまい意識などなかったとしても、意識自体がないのだから「しまった、やはり死後には何もなかった」と知ってがっかりすることもない。しかも、かりに死後は何も残らなかったとしても、本人は最後まで死後の生命を信じて、希望を抱きながらこの世を去ることができる。
 一方、否定論者の場合は、事態がどう進展しようとも、芳しくない結果となる。なぜなら、自分の主張の正しさが証明されたとしても、すでにその時には自分の意識もないのだから、死後に自分の勝利を味わうことは決してできない。しかし、万が一、死後にも自分の意識があった場合には、本稿で紹介したように、自分の誤りを知って衝撃を受けたり、唯物論的な生き方をした自分の人生に対して猛烈な反省を促されることだろう。もしかすると、先立っていた肯定論者の魂たちから、「そらみろ、やはり死後にも意識があったじゃないか」と糾弾されるかもしれない(魂の状態に戻ると極めて寛容になるので、実際には糾弾されたりはしないだろうが)。しかも、本人は、死後には無に帰してしまうだけだと思いながら死んでいくため、それまでの人生に充実感が乏しい場合には、後悔に満ちた、寂しく、希望のない死を迎えることになる。死は全ての終えんであり、喪失以外の何者でもないのである。
 このように整理すると、肯定論者は事態がどう進展しても幸せ感を得ることができるのに対し、否定論者には、いずれにしても朗報はもたらされないことがわかる。
 以上の2つの観点を見ると、戦略的に絶対優位の立場にいるのがどちらの論者であるかは明白である。「死後の生命」や「生まれ変わり」については、疑わしきは信じないよりも、例え疑わしくても信じていた方が、むしろ理性的なのである。しかも、これらについては、科学的に認めるか認めないかは別にして、個人的価値観として信じながら生活する方が、心理的に様々な利点を持つと考えられる。
 そこで次に、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究結果を、情報として広く伝えることの意義について考察してみよう。

第5節 「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する研究の
有効性
 「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究は、その科学的正当性の議論とは別の次元で、研究成果の存在そのものが大きな社会的役割を有している。本説では、その社会的役割、すなわち我々人類に対して発揮する様々な有効性について考察してみよう。
 まず、超常現象を批判的に検討する安斎育郎教授は、「神は実在する」という命題は科学的命題であり事実に照らして調べるべきだが、「神を信じることは素晴らしい」という命題は価値的命題であるため各人の自由であり、科学がとやかく言う問題ではないと述べたうえで、次のような例をあげる。
 「死の危機に直面している人が、丹波哲朗さんの『大霊界』を読んで、『人間死んでも素晴らしい世界が待っているんだ』と信じて心安らかに使途につくのを見て、『非科学的な死に方だ』などというのは余計なお節介というものでしょう。『死後の世界』が実在するかどうかなどということに頓着せず、それをひたすら信じて心豊かに生きるのも、ひとつの価値観の選択であって、当人の自由です。」
 このように、科学的論争はさておき、少なくとも、「死後の生命を信じることが心豊かな生活につながる」という点については、安斎教授もその有効性を認めていることがわかる。同様に、哲学者のゲイリー・ドーア博士は、次のように主張する。
 「真実であることを立証する充分な証拠がない限り、決して何も信じるべきではないという原則(理性原則)は、現代の科学者や哲学者の間では極端なまでに広まっている。それは、信念にかかわる事柄に対して『情におぼれない現実的な』姿勢を保っていることを示す証明書であり、科学的思想家の誇りなのだ。また実際、科学者や学者のような人があまり物事を軽信しないよう心がけるのは、明らかによいことではある。しかし、理性原則はいかなる種類の信念に対しても有効なのだろうか。何かを信じる場合、人は常に十分な証拠が揃うのを待たなければならないのだろうか。どうも、そうではないようだ。」
 ドーア博士は、理性原則が有効でない例として、「妻・夫あるいは恋人は、自分を裏切っていない」という信念をあげる。もしも「十分な証拠がない」としてこの信念を拒否するならば、2人の関係はおそらく長続きしない。この種の問題では、十分な証拠を求めること自体が、不必要な緊張、不快感、人間関係の破壊をもたらしてしまうため、それを科学的基準によって証明するよりは、たとえ証拠が不十分でも信じて妥協する方が得策なのである。この事例が示しているのは、人が何を信じるべきか否かを決める際に、必ずしも常にその証拠を考える必要はなく、「信じることがもたらす結果の有効性」を考慮した方が望ましい場合もあるということである。むしろ、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究結果をきちんと読みもしないで、先入観から「否定のための否定」をする論者たちの方が、よほど非科学的であり、社会に望ましくない影響を与えている。「スプーン曲げ」の超能力を否定することと、「死後の生命」を否定することとでは、有する意味が全く異なるのである。
ドーア博士は、次のように結論づける。
 「たとえ死後の生命の証拠が、科学的基準に照らし合わせて決定的なものではなかったとしても、その存在を自分の人生で『検証する』という目的を持って信じることを選びとるならば、その姿勢は理性的なものである。また、たとえ否定的な証拠や自分で納得のいかない部分があったとしても、熟考した末の決心でその信念を支持することは、『ある理論の妥当性を研究室で検証中であるにもかかわらずその理論を支持している科学者』が正当であるのと同じように、正当なことである。」
 すなわち、超常現象に懐疑的である安斎教授も、「死後の生命」はすでに超常現象ではなく科学的事実だと認めるドーア博士も、ひとつの点において見解が一致していることがわかる。それは、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する知識が、その真偽の議論とは別に、それを信じる人々に対して望ましい心理的影響を与えるということである。
その影響が、その人の人生観や生きがい感に与える影響であることは、いうまでもない。
 それでは、専門家が見る生きがい感とは、どのようなものなのだろうか。まず、上智大学の小林司教授(医学博士)は、「生きがい」の意味について次のように解釈する。
 「どうやら、自分が生きている価値や意味があるという感じや、自分が必要とされているという感じがあるときに、人は生きがい感を感じるものらしい。必要とされているということは、自分が生きていることに対する責任感であり、人生において他ならぬ自分が果たすべき役割があるということを自覚することである。生きがい感は生存充実感であって、感情の起伏や体験の変化を含み、生命を前進させるもの、つまり喜び、勇気、希望などによって、自分の生活内容が豊かに充実しているという感じなのである。」
 また、兵庫大学の上田吉一教授(教育学博士)は、「生きがい」を持つための条件として、「人生に希望を持っていること」「自らの役割の自覚があること」「明快な価値観に支えられていること」「アイデンティティを失わないこと」「根性を持って障害に立ち向かうこと」の5つをあげている。
 この両者が語る「生きがい」感からは、要するに「自分は何者か」「自分はなぜ生きているのか」「自分は人生において何をなすべきか」といった問題意識が明確であること、そして、できれば自分なりの回答を持っていることの必要性が訴えられている。逆に言えば、自分のことに興味がなかったり、自分が生きている必要性を感じなかったり、何も目的意識がなく毎日をただ生物として漫然と生きているだけであるような場合には、「生きがいのない人生」ということになるであろう。
 それでは、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する知識を持つことが、我々に生きがいを与えてくれたり、生きることの意味を見直させてくれるという考えは、本当に正しいのだろうか。そうした主張は、考え方としては理解できるが、実際に検証することができるのだろうか。このような疑問に答えてくれる事例を、いくつか紹介しよう。
 まず、コネティカット大学医学部精神科のブルース・グレイソン教授は、「臨死体験をした自殺未遂者たちは、二度と自殺を企てない」という命題を検証した。「死後の世界」があるのならば、むしろこの世に絶望したものは、「一刻も早く自らの肉体を去り、楽しいあの世へと移行したい」と考えても不思議はない。この点は、「死後の生命」や「生まれ変わり」の研究成果を広く普及させるにあたって、最も配慮すべき問題点である。これらの知識を知らせたおかげで、かえって気楽に自殺する者が増えてしまったり、自殺にまで至らなくても、「どうせ何度でも生まれ変わるんだから、身体を粗末に扱って早死にしても構わない」などと考える者が増加したのでは本末転倒だからである。
 しかし、結果は極めて望ましいものであり、臨死体験をした自殺未遂者は、二度と自殺を企てようとはしないことがわかった。その理由について、グレイソン教授は、「死が終わりではない」ということを知った結果、あるいは、「何らかの理由で自分は死後の世界から送り出されたのだ」と信じることからくる効果であると分析し、この効果によって、人は自分自身をより許容するようになり、「自殺が問題からの逃げ道にはならないのだ」という事実を知るようになると指摘する。そのうえで、グレイソン教授は、次のように強調している。
 「このような研究を続けていくことにより、我々はやがて、高次の意識レベルへの人類進化という大きな問題について、新しい洞察を得ることができるようになるだろう。臨死体験が重要なのは、死との関連においてではなく、生との関連においてなのである。」
 ちなみに、ポリツィアンとエリソンがアメリカで行った心理学的調査によると、信仰心のある人は、そうでない人に比べて、孤独感に陥ることがないという。中でも孤独感に対して最大の相関にあるのは、「自分の人生にはある種の目的が存在していると思う」か、逆に「自分が何者であり、どこから来てどこへ行くのかがわからない」かという実存的幸福の尺度であった。すなわち、「自分の人生にはある種の目的がある」と思うことができれば、我々は孤独感を持たないで生きていくことができるのである。
 また、コムストックとパトリッジの調査によると、信仰心は、幸福感のみならず、現実の健康にも良い効果を及すことがわかっている。信仰心のある人ほど、心臓病や肺病、肝硬変やガンに冒される率が、明らかに低かったという。その理由としては、信仰心のある人々は酒や煙草を自重し性の乱れもないこと、そして信仰心が心の平安を生み
出し、それが血圧の低下を可能にすることなどがあげられている。
 もちろん、信仰心を持つことと、「死後の生命」や「生まれ変わり」を信じることは、全く同じではない。信仰心とは、通常、特定の宗教の神あるいは教祖や教義に対するものであり、必ずしも科学的な知識に裏づけられている必要はないからである。しかし、宗教としての「死後の生命」や「生まれ変わり」を信じることも、科学的観点からこれらの仮説を認めることも、結果においては同じである。それは、上述の事例からもわかるように、これらを信じたり認めることによって、「自分は何者か」「自分はなぜ生きているのか」「自分は人生において何をなすべきか」という問題意識が明確になり、それらを自問する事ができるという効果にほかならない。このような、生きがい感の向上効果について、ジョエル・L・ホイットン博士はこう語る。
 「最も重要なのは、中間生を知ることによって、一人一人の責任が非常に大きくなることである。この世は、中間生で計画したことが試される場所だ、と認めるなら、毎日の生活は新たな意味と目的に満ちたものとなる。そして、たとえこの世の環境がどんなに困難であったとしても、短い人生を終えた時、人間は、愛の根源の美と雄大さのうちに包み込まれる。中間生こそが私たちの住むべき世界であり、地球という惑星は、魂の進化のために必要な試験場であるにすぎない。我々がここにいるのはなぜなのか、また何をしなければならないのか・・・・超意識の研究は、我々にそのことを理解させずにはおかない。」
 この言葉には、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを研究することの意義が、端的に示されている。全てのことには意味があり、自分の人生は、自分が自分に与えた問題集であること、そして自分を取り巻く人々は、愛してくれる人も敵対している人も、みな理由があって自分の成長のために存在してくれていることを知った時我々の人生観は大きく揺さぶられる。それは、他のいかなる表面的なカウンセリング技法によっても成し遂げることのできない、まさに価値観の本質的な揺らぎと転換であると言えよう。
 子供を亡くした親や、親を亡くした子供は、わが子や親がこの世での勤めを無事に果たして帰還したこと、いずれはあの世で再会できること、そしてこの世においても、常に自分たちのそばで見守ってくれていることを知る。どうしても今すぐに会いたければ、前述したレイモンド・ムーディ博士の「精神の劇場」を訪問すると、生前の姿のままで言葉を交わすことができる。たとえアメリカにまで出向かなくても、「我慢できなくなったら精神の劇場へ行こう」と思うだけで、どれほど心の支えになることだろうか。
 事故で手足を失った若者や、障害を持って生まれてきた人々は、それが誰のせいでもなく、自分自身で計画した試練であり重要な理由があること、その試練に打ち勝てば大きなご褒美が用意されていること、また次回の人生では、再び完全な身体として生まれ変わることを知る。これらの情報を知らないうちは、自らを襲った悲劇は不幸以外の何物でもなく、ただ暗たんたる人生が待ち受けていたにすぎない。しかし、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを理解すると、全ての悲劇に貴重な意味が生まれ、単なる不幸が成長への機会と変貌し、多くの「魂」たちが常に激励してくれていることに勇気づけられるのである。その結果、「たまには、こんな人生を送ってみるのも悪くない。どうせなら大いに楽しんでやろうじゃないか」という意欲がわいてきたならば、それはまさに、「魂」たちからのメッセージであるに違いない。事実、数多くの退行催眠の事例をもとに、ブライアン・L・ワイス博士は次のような結論を出している。
 「重い精神病や肉体的な欠陥などのように深刻な問題を持つことは、進歩のしるしであり、退歩を意味しない。私の見解では、こうした重荷を背負うことを選んだ人は、大変に強い魂の持ち主だ。最も大きな成長の機会が与えられるからである。
もしも、普通の人生を学校での一年間だとすれば、このような大変な人生は、大学院での一年間に相当する。退行催眠をかけると、苦しい人生の方がずっと多く現れてくるのは、そのためである。安楽な人生、つまり休息の時は、普通はそれほど意味を持たないのである。」
 また、まもなく死を迎える時、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを知っていれば、どれほど心安らぐことだろう。「死ぬ」ということは、ただ「肉体」という衣服を脱いで取り替えるだけにすぎないこと、次にどのような衣服を着るかは自分で選択できること、先立った懐かしい人々との再会が待っていること、この世に残す家族はやがて自分が迎えに来ればよいことを知っていれば、死の瞬間をどんなに大らかな気持ちで待つことができるだろうか。
「さて、次はどんな人生を計画してみようかな」と、洋々たる未来を想像することができれば、死に際しても楽しい気分でいることができるに違いない。
 人間関係の悩みを抱えている場合にも、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを知ることによって、新たな視点から関係を見直すことができる。親子や夫婦、親友や宿敵などの人間関係には全て深い意味があり、それらの人々は、過去何度もの人生を、深くかかわり合いながら共に修行してきた、いわば「戦友」なのである。現在反目し合っている宿敵でさえも、「今回の人生では敵同士に分かれて、互いに許し合うことに挑戦しよう」と約束して生まれてきたに違いない。研究者たちの報告は、この世で出会うあらゆる人々に対して、愛情と感謝を注ぐことの必要性を訴えている。とりわけ、両親に感謝することの大切さについて、エリザベス・キューブラー=ロス博士は、このように語る。
 「死とは、ただこの世から、痛みも苦しみもない別の存在へと移るだけのことだ。つらい思いも、いさかいも全てなくない、永遠にあるのは愛だけである。だからこそ、今、愛し合って欲しい。なぜなら、私たちは誰でも、自分に命を与えてくれた人たちと、あとどのくらいこの世で共に過ごすことができるのか、わからないからである。たとえ、どんなに不完全な親だったとしても・・・・」
 同様に、レイモンド・ムーディ博士は、臨死体験者に共通して現れる重要な心境変化について次のように強調する。
 「息を吹き返すと、すぐにほとんど全員が、『愛は人生で最も大切なものだ』と言うようになる。人間がこの世に生を受けるのは、愛のためだと言う者も多い。大半の者は、幸福と達成願望は愛の証明であり、愛に比べると他のものは色あせて見えるという。このことを悟ることにより、臨死体験者のほとんどが、根本的に価値観を変えてしまう。自分の信念に凝り固まっていたものが、人間はそれぞれ大切だと思うようになり、有形の財産こそあらゆるものの頂点にあると思っていたものが、同胞愛を重んずるようになるのである。」
 以上のように、我々は、「死後の生命」や「生まれ変わり」の知識を身につけることによって、自分自身の存在意義や人生の目的を問い直し、過去の人生や現在の状況がいかなるものであろうとも、そこには必ず重要な意味が込められていることを認識することができる。その知識は「生きがいの源泉」の役割を果たし、自分を取り巻くあらゆる事象や人物、生物たちに対する「愛の源泉」にもなることだろう。その過程では、多くの人々が、価値観の本質的な揺らぎと転換を経験するに違いない。このような効果を、特定宗教を信じない人々や、宗教を拒絶する人々にも与えることができる点が、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する科学的研究を広く紹介することの意義であると言えよう。
 もっとも、これらの研究成果を目にすることを嫌い、唯物論を「信じる」ことも、また自由であり、権利である。おそらく、これらの研究成果を目にして、知識として理解することはできても、「にわかには信じ難い」という人々も多いことだろう。とりわけ、自分の人生を、目前の利益だけを考えて自分勝手に生きたいと考える人、あるいはこれまでそのような人生を送ってきた人にとっては、本稿で紹介する知識は、「信じたくない、認めたくない情報」であるに違いない。それでも、何割かの人々は真剣に受けとめてくれるだろうし、私の経験では、このような情報を密かに待ち望んでいる人々も少なくない。さらに、「絶対に信じない」と強がっていた人々が、やがて研究者たちの真摯な言葉に胸を打たれ、「もしかしたら、あるのかも」と心を開いていった事例を、私は何度も目にしてきた。無理に特定の宗
教に依存しなくても、個人的な信仰心を持つことは可能なのである。そして、そのような場合の信仰心とは、いわば
「科学的知識に裏づけられた宇宙の法則」に対して向けられていると言えよう。
 その際に、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する宇宙の法則のことを、「神」と同意に位置付ける者もいるかもしれない。また、その法則において実在する「指導役の魂たち」あるいは「その中で最も偉大な魂」のことを、「神」と呼ぶ者もいることだろう。おそらく、そのような実存的な「神」を認識した者は、たとえ周囲に人間がいなくても、犯罪や不道徳を行うことはない。人間が見ていなくても「神様はいつもそばにいてくださり、私の言動を見ていらっしゃる」と、確かに実感することができるためである。このような人々が世の中に増えていけば、この物質世界で目先の欲望に囚われて無益な犯罪を犯す者は、必ず減少するはずである。
 いずれにしても、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究結果は、我々にとって、「生きがいの源泉」として役割を果たしてくれるに十分な衝撃性と説得力を持っている。退行催眠や臨死体験を経験した人々が、突然に価値観を大きく変え、物事に動じなくなったり、物欲や金銭欲を捨てたり、ボランティア活動を始めたり、他人に対して寛容になったりする姿は、その有効性を如実に示していると言えよう。自殺者に対する実証研究の結果としてグレイソン教授が述べたように、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究が重要なのは、あくまでも「死」との関連においてではなく、「生」との関連においてなのである。

おわりに
 本稿の目的は、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する近年の科学的研究の成果を整理することにより、その内容が我々にとって「生きがいの源泉」となる事実を示すことであった。とりわけ、高度経済成長が終焉し、物質文明の価値と「豊かさ」の意味が問い直されている現在、我々日本人は、京都大学助教授のカール・ベッカー博士が鳴らす次のような警鐘を、謙虚に受けとめる必要があるだろう。
 「日本は不思議な国です。明治以前には『霊』の存在を当然のこととしてきたのに、今では過去の欧米に追従して、この種の現象を真面目に考えようとしない風潮が、特に科学者の間に強くあります。欧米諸国はこの方面で、ある意味ではむしろ昔の日本に近付きつつあるのに、逆に日本は、過去の欧米の水準から一歩も進もうとしないのは、まことに皮肉というほかありません。」
 すでに多くの言葉を費やしたが、本稿で紹介した科学的知識は、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する数多くの研究の、ほんの一端にすぎない。興味を抱かれた方は、ぜひとも原典に目を通していただきたい。先入観を捨てて一読いただければ、彼らの真摯な研究姿勢に心を打たれ、その研究成果が持つ意味の重大さに震撼されることだろう。
 研究者たちの言葉の数々は、我々に、生きることの真の意味を問いかけている。我々にとって、「死」は決して恐ろしいものではなく、むしろこの世での修行を終えて帰郷する、安らぎの瞬間である。愛する人々との死別は、決して永遠の別れなどではなく、あの世で再会を喜び合うまでのほんの少しの間、直接の会話ができなくなるにすぎない。しかも、この世で修行を続ける我々を取り囲むように、先立った家族や友人達の魂が、いつも温かく見守り話しかけてくれているし、我々からの呼びかけも必ず彼らに届いている。我々は、たとえ荒野の真ん中にひとりたたずんでいようとも、決して孤独ではない。
 そして我々は、この世という修行の場に繰り返し来訪しては、愛すること、許すこと、感謝することの大切さを学ぶ。
人生とは、いわば、生まれる前に自分で作成した問題集のようなものである。それぞれの問題を、解くことができてもできなくても、正解は、問題集を終えるまで見てはならない。人生という問題集を最後までやり遂げた時、初めて我々は正解と照らし合わせ、自分の成長度を自己評価することができる。そしてまた、解けなかった問題を解く
ために、あるいは一段と難しい問題を解くために、自分自身で新たな問題集を編み、それを携えて、この世という修行の場を再訪する。研究者たちの言葉は、あたかも「生きがい」を見失って闇に沈む現代人の心に、待ちわびていた夜明けをもたらしてくれるかのようである。
 本稿の執筆は、経営学者としての私にとって、決して得になる行為ではない。おそらく、悪意を伴う批判ばかりでなく、善意による注告も、私を待ち受けていることだろう。しかし、私にとっては、目先の損得勘定や、経営学者としての序列など、もはや眼中にない。本稿で整理した科学的知識を、人々に広く知らしめることの方が、撮るに足らない私の個人的評価よりも、はるかに重要で価値の高いものだと確信しているためである。
 本稿が、ひとりでも多くの悩める方々の目に触れ、それぞれの人生にわずかでも勇気と希望を与えることができるよう、私は心から祈っている。

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